日時 | 2025/5/22 19:00~20:25 |
ゲスト | 藤井恵介氏(東京大学名誉教授) |
場所 | 肆(ヨン)地下1階 |
参加者 | 13名 |
※発言者敬称略
▼冒頭挨拶【柳】
- 第10回となる今回は、建築史研究の第一人者であり、東京大学名誉教授の藤井恵介先生をゲストにお迎えし、神保町の街並みを特徴づける建築物の魅力や建築史の視点から見た神保町の変遷、そして普段見過ごしてしまいがちな建物のおもしろさ等についてお話しいただく。
▼ゲストスピーチ【藤井】
- 神田神保町には岩波書店、集英社、小学館はあるが、それ以外の大きな出版社は都内の他の地域に点在している。個人的に付き合いのある中央公論美術出版が京橋から神保町へ移ったため、大学を退官した後は毎週のように神保町へ来ている。その他、日本イコモス(世界文化遺産の保護・保存、そのための科学技術の応用研究等を行なう組織)関連の仕事にも携わっているので、神保町には頻繁に来ている。
- 仕事で短時間滞在する際には学士会館の喫茶店(誰でも利用できるが、会員でないと敷居が高い)を利用していたため、閉館はショックだった。
- 私自身は建築史が専門だが、工学部で勉強している時は文科系の書店が多い神保町へ来る必要はなかった。東大では生協の本屋が非常に充実しており、品揃えも八重洲ブックセンターには敵わないものの文庫本、新書のみならず専門書もほぼ入手できる。新刊書コーナーもこの部屋くらいの面積があり、学外の書店へ行く必要がない。誰でも入れるため、皆さんも是非一度のぞいてみてほしい(生協の組合員は1割引になるが、組合員でなくても通常価格で購入可能)。
- 神保町へ来るようになったのは大学院に入り建築の歴史を勉強するようになってから。平安時代の仏教建築を研究しようとしたので、弘法大師・空海や伝教大師・最澄がどういうことを考えて何をしていたのかを勉強する必要があった。大学にも本はあるが、手元に置きたい本は神保町の書店(日本宗教史に関しては東陽堂書店や村山書店、建築史については明倫館書店等)で購入していた。南洋堂書店で値段を確認し、より安価な本を見つけたら買う等した。日本史系の資料集も多く購入した。
- 高田馬場にある古書店は2割引だが、駿河台はだいたい1割引。早稲田の方がお得だが、良い買い物をするため全ての本屋を見て回るのに体力が必要。早稲田に比べて駿河台の方は駿河台下交差点から神保町の間で比較的距離が短い。大学教員の職に就くとそれほど出歩けなくなり、有力な古書店が出している図書目録を大学へ送ってもらい、それを見て取り寄せるようになった。結果、古書店から足が遠のくことに。
- 本郷も、古書店街として有力だった。私が若い時には非常に多くの古書店が並んでいたのだが、現在はほとんど閉店してしまった。10件くらいが残っているだろうか。
- 建物が赤く表示されている地図は明治18年頃のもの。日本で最初に作られた近代的な地図で、どこまで正確かは分からないが建物の形や庭も描かれており非常に貴重。歩いているかのような想像ができるためとても便利。
もともとは国土地理院が秘蔵していたようだが、昭和の終わり頃に何かの付録で連載したものを、日本地図センターがリプリント版を刊行してくれた。実物は品切れになっているがダウンロードできる。それらをコピーして神保町の交差点で4枚重ねてみると、明治政府がいろいろなものを作りつつある最中の地図であることが分かる。麹町は江戸時代の状態がそのまま維持されていて、旗本屋敷の中に庭園がどれくらいあったかという研究にも使えるため非常に便利。色が付いているため見ていて楽しく、いろいろ新しい発見もある。趣味で額装して飾っている人もいるくらい。 - 関東大震災で東京は焼け野原になったが、この辺りは木造建築に加えて明治政府が造った煉瓦や石造りの赤い建物が壊滅的な被害を受けた。震災後、後藤新平(当時の内務大臣)が中心となり東京の復興に当たった。明治初期には2階建てだった建物が3~4階建てになり、鉄筋コンクリートで外側にタイルを貼る建物が増えていった。木造建築の方が耐震性は高いため、個人住宅(多くが町家)の半分くらいはそのまま使用された。
- 地図はネット上に多くあるが、ネットだと出所が分かりづらい。地図は、それがいつ頃作られたものなのかという素性を分かったうえで使用した方がいい。
- 後藤新平が進めた東京復興で細い道路が拡幅されることになり、両側にあった古い建物が取り壊され、現在の靖国通りや昭和通り等の大きな道路が造られた。都市計画的には非常に良いことだと認識されているが、建築史側の視点から見ると素晴らしい建物を殆ど破壊した犯罪的な行為に見える。
- 第二次世界大戦後に日本中で古い道路の拡幅が行なわれたが、モータリゼーション化はアメリカ車を日本へ売りつけるために進められたという話をラジオで聞いたことがある(宇沢弘文氏が喋っていた)。昭和20年代に運輸省が道路を拡幅するために赤線を引く作業をした際には、建築学科の学生(私の先生たち)もアルバイトをしたと言っていた。
- 幹線道路の拡幅に伴いそれ以前に存在していた両側の古い建物は全て壊されたが、時おり現存している建物は曳家技術(建物を解体せずにそのまま移動させる工法)により移動されたもの。
- 文京地区の地図を見て驚いたのは、多くの大学がこの地域に設立されていた点。神保町の南側には東京大学が、一橋通りには現在の東京外国語大学や一橋大学の前身となる学校が、その東側には学習院大学もあった。場所が狭いため、広い土地を求めて、郊外に移っていった。
- 明治10年代に私立の法律学校が御茶ノ水にかけて点々と創設されていった。教鞭を執るのは東大の先生だったため、本郷から歩いて行けるこの辺りに明治大学や中央大学の前身となる学校が設立され、それに伴って神保町の古本屋街が誕生した。
- 高等師範学校が付属学校になったり、東京高等商業学校が一橋大学になったりと学校名も変わった。「学士会」は旧帝国大学の出身者で組織されている親睦会で、「学士会館」は会員のための俱楽部施設。
- 戦後すぐに日本地図株式会社が発行した『東京都35区 区分地図帖 戦災消失区域表示』 で赤く塗られたところが焼けた場所。ほぼ消失したことが分かる。この地図は東京大空襲で焼け残った家を探すのに大変便利。目黒方面は全く焼けてないが、これは当時住宅がなかったため。世田谷区も田園だったため燃焼していない。渋谷区には当時から住宅があったことが分かる。
- 軍隊の解散後に取りまとめられた戦災の記録には、県庁所在地とそれに準ずる中核都市の市街地がどのくらい爆撃で焼けたかが地図で示されている。
- 東京大空襲や広島・長崎への原爆投下に加え、県庁所在地他の地方中核都市も盛岡と熊本の一部を除き全て焼かれたが、かろうじて免れたのが倉敷。倉敷には軍需産業がありターゲットだったはずだが、なぜ攻撃されなかったのかは謎。現在では古い街並みが観光地になっている。富山県高岡市も同じで、この2ヶ所には多数の古い建物が残っている。
- 高岡には重要伝統的建造物群保存地区が3箇所もある。銅器も有名で、近年は錫のグッズ製作で売り出している。機会があればぜひ訪れてほしい。
- アメリカ軍は木造建築に対して徹底的に焼夷弾を落とした。日本人は第二次世界大戦で明治以来、努力して造ってきた町家建築が殆ど焼かれるという悲惨な目にあっている。
- 神保町は道路の北側は焼けているが、南側の戦前の古い建物が比較的多く残っている。戦後、大学は移転していった。
- ネット上にある地図は、縮小すると場所の名前が消えてしまったり、印刷すると小さくて読めなかったりする。プリントされた詳細な地図が販売されていればいいのだが。
- 神保町のすずらん通りにも古書店がたくさんあり、その南側に出版・印刷の関連業種(製本紙工、洋紙商等)の小さな工場や住宅が密集していたのだが、超高層ビルに再開発されたことは衝撃的だった。学士会館だけが取り残され、小さい商店もどんどんなくなり、この20年くらいで様変わりした。表側はかろうじて残っているが、古本屋街に大資本が手を出してはならないと思う。学士会館は以前から経営難だったらしく、閉館(一時休館)して再開発されていくことになった。
- 昭和初年から10年くらいまでの間に震災復興の建物がたくさん造られたが、その時代の建物を見るならば東大へ行くのが一番。工学部1号館の前では毎日のように撮影会が行なわれている(中国人の若い女性が撮影されている)。
- 少し前までは丸の内にもそういう建物があったが、ほとんどが壊され現存しているのは「明治生命館」くらい。他には、かろうじて「日本工業俱楽部会館」の表側と「第一生命館」の外観が残された。「旧東京中央郵便局」も部分的に保存・再生されているが、KITTEが入っているJPタワー等、ビルの個性をどう発揮するかが難しい。ビルの外壁面だが、個人的には自己主張しすぎるよりは平らな方がいいと思う。
- 神保町は近代に造られた古い建物が震災により破壊され、震災復興された痕跡が学士会館や裏側のビルに残っているが、どんどん駐車場になっている。土地の規制が緩くなった結果、高層化して貸しビルにするか、駐車場にするかの選択肢しかなくなった。丸の内も同じ。日本の国家政策がそういう方向に進んでいるのが原因。
- かつては30メートルの高度規制があり、震災復興後の建物は銀座も日本橋も丸の内も30メートル(約10階分)で揃っていた。耐震設計が可能になったことから高度規制が緩和されていったが、その中で残ったのが東京駅。1970年代から建替えの是非をめぐり、年に1度くらい、シンポジウムで議論されていた。国鉄、建築・設計会社、保存派の間で意見が分かれ、国鉄は決断できないままJRに分割民営化された。
- 以前の東京ステーションホテルは最終電車に乗り遅れたサラリーマンが宿泊する場末系のホテルでろくな施設もなかった。設計を行なう側は古い建物を壊して新しいものを建てたがるが、建築史側としては保存したい。社会的な力関係は圧倒的に建設側が強いが、東京駅のような案件になると社長判断になる。
- JR東日本は2003年に東京駅丸の内駅舎が国の重要文化財に指定されたことを受け、免震技術の導入に500億円を投じて地震の揺れを軽減する仕組みを導入したが、その費用は空中権(建物の容積率(延床面積の上限)を他の敷地に移転できる権利)を周辺の高層ビルへ移転することで捻出した。
→伊藤滋氏が考案し、三菱地所と話をして実現した。
→大改修を行ない、高級ホテル(東京ステーションホテル)や商業施設を入れた。
→建替え前のバーは良かった。両ウィングにあり、すぐ側を電車が通るため鉄道愛好家の聖地だった。
→建物を削るか中央線の軌道を削るかで議論した結果、建物を削ることにした。そのくらい鉄道の軌道を守ろうとする意識は非常に強い。
▼懇談会
- 45年程前は東京歯科大学の並びに研数学館があり、反対側に明治大学、主婦の友社の社屋等、古い建物がたくさんあった。小さな取次店が密集していたところが三井ビルディングになる等、50年弱の間に街並みが一気に変わった。来るたびに隔世の感がある。
→昔は地下鉄がなかったため、神保町はJRから歩かなければ来られない不便な場所だった。靖国通りに都電が走っていた。
→モータリゼーションの進展で都電が廃止されたが、残しておけば便利だったと思う。
→トラムのような交通手段が今また流行り始めているが、こういうものは時代のトレンドでどんどん更新されていく。建築系の人間は都市計画を批判する傾向があるが、取り残されたものにこそ愛着がある。同時期に全てを更新していくのではなく、少しずつ更新していくべき。一度に変えてしまうと、数十年後、全てがただ古いものになってしまう。いろいろな年代のものが同時に共存して様々に豊かな顔がある、そういう場所を仕組んでおいた方がおもしろい。 - 80~90年代にこの辺りでデザイン会社を経営していたが、細い路地裏に祠のようなものがあった。ビルを作るときに移動させられないからビルに埋もれるような形で入れられたのだと思うが、何の説明も書かれておらず気になっている。
→お屋敷の中にあった祠ではないかと思うが、由来は分からなかった。一応、神社のようで仏教っぽい名前がついている。共立女子大学も何かしらお金を出しているようだ。
→京都はそういうものを地上に残すが、東京は上階へ移してしまう。 - 歌舞伎座タワーの設計に隈研吾氏が携わっていた際、歌舞伎稲荷神社の取扱について相談を受け、上階へ上げてもいいのではないかと助言したが、歌舞伎関係者が参拝するようで結局地上に残した。
- 京都は地元の雰囲気が残る。関わらざるを得ないため地面に残しておくことは重要。
- 地方で神保町みたいな街はあるか。
→ないと思う。世界唯一ではないか。
→商店街はあるが、こういう特殊な業種が集中したところはない。
→東京だと早稲田と神田神保町のみ。早稲田は相当衰退しているが、神保町は取引が上手なのかよく維持できている。本郷もほぼシャッター街になってしまっている。今は古書もネットで買えてしまう。目を通すのに時間がかかる目録とは異なり、値段の比較がすぐできるため、田舎の古本屋でも注文は減らない。 - 神保町の古書店主も、これまで目利きでいい値段をつけて利益を出していたが、価値を理解していない地方の古本屋さんが低い値段をつけてしまうことを嘆いていた。
→長年経営している古書店が扱う本は品質や状態が良い。 - 八木書店の会長が、米軍が神保町を攻撃しなかったのは本を焼くと困ると思ったからだと力説していた。
→真相は分からない。都内で空襲を免れたのは丸の内地区と東大のキャンパス。慶應も東大も早稲田も免れているから大学は残そうという狙いはあったのかもしれない。 - 丸の内は占領後に進駐軍が入るために残したのではないか。進駐軍は接収した洋館に将校を入れているが、洋館は不思議なくらいピンポイントで残っている。
→内田祥三の西麻布の自宅は洋館だけが接収され、家族は和館に住んでいた。 - 神保町の地名の研究をしているが、参考になる資料はあるか。
→柏書房が明治初期から地域ごとの分厚い地図帳を作成している。国会図書館や戦前からある区の図書館(京橋図書館、千代田図書館等)で「地図集」と検索するとヒットするかもしれない。
→一誠堂書店等の歴史ある古書店の店主に直接聞いてみるといい。物知りの店主達は若い人が来ると喜んで話をしてくれるため、何か分かるかもしれない。 - 東京駅を保存・復元することにしたところ、他のランドマーク(早稲田大学大隈記念講堂、東京大学安田講堂、旧国立公衆衛生院、日比谷公会堂等)も続々と保存されることになった。以前は何でも壊していたが、象徴的な東京駅の修理・再開発が上手くいったため風向きがかなり変わってきた。東京駅がなくなっていたら新宿のような街がもう一つできていたかもしれない。写真で見ると東京駅周辺は超高層ビルばかり。
- 小さい建物を残すことはまだ難しいか。
→都内から外に移築するしか手段がない。
→何とか買い戻している。神田の元八百屋の所有者は登録文化財にして残そうとしているが、相続問題が生じて難しい状況。 - 東大にある内田祥三先生が設計した建物は保護されるのか。
→壊す際には学内での合意形成を要するという内部ルールを作った。1990年代に文化庁より安田講堂を東京都の登録有形文化財にしてくれないかと打診があり、当時の学長の一存で第1号にした。その後、東大キャンパス内の建物をくまなく調査し、ランク付をした登録有形文化財の候補リストを作成した。Aランクで現存しているもの(50棟ほどか)は壊してはいけないことになっているので、増築は内側の庭に行なっている。
→医学部第一号館も良い。 - 東大、上野公園、谷中も合わせてそうすべき。散歩するのにちょうどいい。
- フランス人の留学生から東京にヒストリックエリアはないのかと聞かれ、ないと答えると驚かれる。パリは高度規制をしているため高い建物はない。全てがヒストリックエリア。
→先進国の首都でヒストリックエリアがないのは日本ぐらいだと言われている。 - ヨーロッパでオールドシティと呼ばれるエリアは、壊して建て直すという習慣がもともとない。19世紀以来、維持できるものは維持していこうと取り壊しを止めている。パリも同様で、ジョルジュ・オスマンが19世紀に行なった都市改造では古い建物をかなり取り壊したが、それ以降はずっと維持している。
- 日本は京都、倉敷、高岡以外はほとんど焼けている。県庁所在地と中核都市は焼け野原になったため、街並みが残っているのは田舎だけ。
- 東京にも焼夷弾が落とされていない場所があり、それが東大、上野や、将校用の洋館。都内の大使館や大使公邸などに結構戦前からの館が残っている。敢えて焼かれなかった場所は保存エリアにしてもいいのではないかと思う。
- 金沢には第9師団が駐留していたため焼かれても不思議ではなかったが、日本海側は戦略目標になっていなかったのかもしれない。
- 太平洋側は全て攻撃された。B-29はマリアナ諸島の基地(テニアン等)から飛び立っていたため、往復にそれほど余裕がなく、山(日本アルプスなど)を越えられなかったのかもしれない。
- 西日本に多く存在する山中にある中世のお寺について研究をしていたため、学生時代には岡山、広島、姫路等に泊まっていたが、どの都市も爆撃を受けたため古い街並みが全く残っていない。
- ドイツには日本の10倍の爆弾が落とされ、徹底的に破壊された。木造建築は焼かれてしまうと何も残らないが、石造建築だと少し残っていれば復興できるらしい。
▼次回の予定
- 第11回は6月25日(水)、19時よりブックハウスカフェにて開催。
- 『日本美術全集』等、美術書の編集に携わってこられた小学館社長室顧問の清水芳郎氏をゲストにお迎えする。美術書は書籍の中では特殊な分野なため、おもしろいエピソードが聞けると思う。