| 日時 | 2025/6/25 19:00~20:50 |
| ゲスト | 清水芳郎氏(小学館社長室顧問) |
| 場所 | 神保町ブックハウスカフェ |
| 参加者 | 10名 |
※発言者敬称略
▼冒頭挨拶【柳】
- 本日は、数々の美術書を編集されてきた小学館社長室顧問の清水芳郎氏をお招きし、ご自身の編集体験や日本美術に対する思い、さらに神保町でのエピソード等をお話しいただきます。
▼ゲストスピーチ【清水】
- 初めて神保町を訪れたのは50年以上前。千葉県柏市から三省堂書店まで研究社の『英和大辞典』を買いに来た。半世紀が経ったかと思うと唖然とする。
- 学生時代は少しでも安く美術書を買うため、ビジュアル本を扱っている源喜堂書店や読む美術書を扱っている古書店を訪れては現物を見て回っていた。美術書かロックのレコードかという大学時代で、レコードは渋谷へ、本は神保町へ買いに来ていた。
- 情報があまりない中、目録を見るわけでもなく聞き齧った情報だけで読むべき本を決めていた。当時はレコードの比重が高くて美術書はその次だった。
- 神保町は自分の未来の書棚。毎月少しずつ購入し、西洋画集がゾッキ本的に1冊200~300円で出ていると購入して西洋絵画を見たりしていた。お金がないため神保町で食事をすることはなかった。神保町で本を買った帰りに渋谷でレコードを買い、両方抱えて自宅でご飯を食べるという生活。40~50年前に買った本は今でも家の書棚に並んでいる。
- 小学館は3社目。35年前、31歳の時に入社した。神保町に拠点のある会社に入社したからといって古書店へ行く時間はなく、仕事の合間に食事のために街へ出るくらいだった。夕食後に職場へ戻り2~3時間仕事をすると、深夜の0時から再び近所の店で夜の編集会議を始める、といったタフな生活を送っていた。
- 本作りを始めるようになってからは、古書店よりも新刊書店へ行く割合の方が増えた。自分が作ることのできる本の冊数は限られている。東京堂書店や三省堂書店は、同士でもありライバルでもある編集者が作った本を見に行く場所になった。
- 昼休みの1時間は、編集者としての感覚を試すために、本の表紙と組版、ページ数等を見て本の値段当てをしていた。他社のものも含めて原価に対するモノサシは持っている。それが狂ってきたら編集者としての基準がズレてきていると思うようにしている。こういった目的で神保町の書店を利用するのは、編集者特有のことかもしれない。
妙に高い本があったりすると、理由(表紙に金箔が使われていて部数もあまり出ない、こういう出版社だと高くなるのだろう等)を考える。 - 本はあまり値上げをしない商品だが、紙の銘柄が減少し用紙価格が上昇していることから最近は値上げを行なっている。編集や自助努力ではどうにもならない状況。
- 学生時代には美術書を買いに来ていた神保町が、今では新刊本の見本場所のようになっている。古書も気に入った店で買うことはあるが、家が本だらけになるため家人からは評判が悪い。終活の準備に向けて本を整理する方法を教わりたいくらい。
- 皆さんは電子本を読むこともあると思うが、我々は本の質感を大事にしていて、表紙や本紙にどういった紙を使うかには神経を使っている。読者にそれが伝わっているどうかは別として、手に納まった時の感覚やカバーの質感も大切にしている。「PPをかける(紙の表面にポリプロピレン(PP)フィルムを貼る加工)と、ツルッとはするが少し味気なくなるかな」とか、「これは繰り返し読んでもらいたいからPPをかけた方がいいかな」とか、「これは一度読めば書棚に入るだろうから、ニス引き(印刷物に樹脂液でコーティングする表面加工)をして汚れ防止だけ行なうのでいいかな」とか、いろいろ考えながら本を作っている。伝わっている人には伝わっているだろうが、自己満足だと思いつつ行なっている。
- 小学館では主に単行本を作ってきたが、新卒で入社したのは『暮しの手帖』を手掛ける暮しの手帖社。今とは全く違う分野で、次に入社した会社(オレンジページ)も含めて約8年間、雑誌を手掛けていた。両雑誌ともに100万部の売上を誇っていて、雑誌が一番幸福な時代に関われたのはよかった。
- 直近で25年程は美術本を中心に作ってきた。小学館は『原色日本の美術』『世界美術大全集』を刊行する等、美術に関する理解がある会社。昔は各社で美術本を作っていたが、コストが見合わず売れない時代になったため、だんだん作られなくなってきた。
- 『ザ プライス コレクション』は、伊藤若冲のコレクターでもあるジョー・プライス氏のコレクションから厳選した作品をまとめたもの。伊藤若冲といえば今や日本美術のスターだが、私がプライス氏に会った2000年頃は若冲と言ってもまだ誰も知らなかった。
- 『美術手帖』の編集者が、美術史家の辻惟雄氏へ「あまり光が当たっていない江戸期における変わった絵師たちを連載してくれないか」と依頼したことから『奇想の系譜』(1968年7月~12月)の連載が始まった。それにより、若冲や岩佐又兵衛等に光が当てられることになったが、そこから再び若冲は忘れられていった。
- 2000年、京都国立博物館(京博)で「没後200年 若冲展」が1か月間だけ開催されたが、約9万人が来場し、図録が3万部売れた。図録の購入率はかつては東京で1割(10人に1人が購入)、関西で0.8割(12人に1人が購入)と言われている中、若冲展は3割を超えた。久々に現れた日本美術のスターとなったが、最初に若冲の本を出したのは2000年。企画書を社内で回した際の反応は「伊藤若冲(わかおき)って誰?」というものだった。「伊藤」という名前から現代の人だと思われたようだ。そこから若冲が大ブームとなり、四半世紀経っても未だにスターでいる。
- 『和樂』の次回特集は「若冲VS応挙」。円山応挙の凄さを見直そうというもの。書店でぜひ手に取っていただきたい。
- 個人の若冲コレクターとしては世界一と言われるプライスご夫妻(奥様は日本人)を紹介されたのは2000年。若冲展が一つのきっかけとなったが、一緒に若冲を盛り上げていけたのは幸運だった。
- プライス氏の父親は石油パイプライン造設に内側から溶接する技術を導入する事業で財を成した方で、アメリカのグッゲンハイム美術館を設計したフランク・ロイド・ライトのパトロンだった。プライス氏は父親からライトのもとで勉強してくるよう言われ、浮世絵や日本美術を収集していたライトに連れられて訪れたニューヨークの古美術商で一枚の掛け軸『葡萄図』に目を留めた。ちょうど卒業祝いに父親からもらっていたメルセデス・ベンツ300SLの購入資金を掛け軸の購入に充てた。それが若冲との出会いだが、当時は画家の名前すら知らなかった。同じ店で「若冲を持っているか」と聞いところ、「これまでに何枚も買っているじゃないか」と言われ、そこから意識して若冲を集め始めた。
- ロサンゼルスにあるプライス氏の自宅を訪れた際、地下に納めているコレクションを3~4日連続で見せてもらい、2006年にようやく『ザ プライス コレクション』という本にまとめた。当時は豪華本を随時作っていたが、おもしろいことに7万円の本は7キロ、5万円の本は5キロの重さだった。プライスご夫妻はもうお亡くなりになったが、最後に寄り添えてよかったと思っている。
- 悲しいことだが、日本では春画がきちんと評価されず、大英博物館で行なった春画展の凱旋帰国というワンクッションを置くことでようやく文化として受け入れられた。今では拒絶されることもあまりなくなってきたが、コンプライアンスの意識が高まっている時代において、春画を見たくない方がいるのは当然のこと。それを否定するつもりはないが、良いものは良いため、きちんと見る機会は作った方がいいと思っている。
- とりわけ歌麿の春画はすごく良い。この絵は、先日まで東京国立博物館で開催されていた「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」にも出展されていた歌麿の最高傑作と言われている「歌満くら」の一場面。この男の目がすごい。歌麿はこの目を描きたいがためにこれを描いたのではと思うほど。ぞくっとする。
- そろそろ神保町とお別れかなと思いながらまだ毎日通っている。昔の神保町には、深夜3~4時まで編集会議を行なえる場所がたくさんあった。そういう場所も徐々に少なくなり、今ではその時間までオープンしている店は数軒ほど。23時頃に閉店する健全な街になりつつある。
- 神保町では編集の分野別にたまり場となるお店が分かれていて、集英社さんともテリトリーが被らないようになっている。偶然、違う編集部の人間がいたりすると、ドアを開けた瞬間にお店を変えたりすることもある。神保町はそういう街。
- 小学館の向かいにある高層ビルの一画には、小さな本の取次さんがたくさんあったが、それらが一掃されて現在のような立派なビルになった。ネクタイを締めて昼間健全に働く会社員も増えてきた。
- 昔は小さな食べ物屋さんやユニークなお店がたくさんあったが、地の利が良い場所なので地代が上昇し、それらのお店も一掃されてチェーン店が増えてきた。ただ、今でも奥まった場所にはいろいろなお店がある。
- 神保町は、常連が大きな顔をしないところがいい。仲間外れにもしないし、つかずはなれずという感じ。私が行くお店にも、大規模書店の会長やTBSの報道ディレクターが来ていたりするが、隣の人が何を話していてもそこに入らないのがルール。そういう決まりが普通に成り立っている大人の街。
- 30年以上神保町にいるものの、決まった食べ物屋さんにしか行かないため、散歩している人の方が詳しいと思うが、渋谷や新宿の喧噪とは異なる雰囲気がある楽しい街。やはり、本がベースにあるということが大きいのだろうとは思う。
- 一方で、レコード店はあまりできない。ディスクユニオン系統のお店が拠点としていくつかあるが、それ以外はレコード屋さんというものがあまりない。全てを求めても仕方ないが、これだけ本が揃っているだけでもいい街だなと思う。
▼懇談会
- 若冲の絵は購入したか。
→購入していない。若冲展の開催前までは、墨画なら100万円単位で買えたと思うが、最上級の作品を知ってしまうとそれより下のものが買えなくなる。当然、市場に出回る安価なものは安価なりの作品。300万円の作品を買うよりは、心の中にある1,000万円の作品を記憶しておく方がいい。「葡萄図」がニューヨークのお店に並んでいたことも不思議。日本画は油絵と違って上書きができないため、重なる色やどこから描くかということが綿密に計算されている。プライス氏はエンジニア。エンジニア的視点で枝の絡み合う構成に目を奪われたのだと思う。墨画で巨大なサイズでもないため、それほど高くはなかったのではないかとは思うが。 - 若冲で一番有名な絵は、「鳥獣花木図屏風」。2003年の森美術館の開館記念展で飾られた。若冲の作品ではないと主張する論者もいるが、所有者が東京国立博物館に寄託していたものをプライス氏が購入した。今なら5~6億円するだろうが、当時は数千万円くらいだったと聞いている。
- 曾我蕭白が好きだが、本が少ない。
→若冲展を担当した狩野博幸氏が2005年に京博で特別展「曾我蕭白―無頼という愉悦―」を手掛けたが、その図録が一番蕭白の作品がまとまっているものだと思う。絵の上手さでいうと、蕭白の方が圧倒的に上だと言われている。若冲は絵の上手さというよりはアピール力や構図、デザイン感覚が優れている。 - 京博で行なった若冲展が9万人もの入場者数を記録した理由の一つに、ネット環境の盛り上がりがあった。「京都でとんでもない展覧会が開催されている」という情報が拡散し、東京からも多くの人が来場した。ネットの普及と展覧会の入場者数の高まりをテーマに卒論に書いた学生が電通に入社する等、そういう時代だった。
- 静嘉堂文庫美術館の館長をしている安村先生が学生だった50年ほど前には、美術は琳派、宗達までだと言われていた。安村先生が指導教授に「浮世絵を研究したい」と言うと、「どうしてそんな下世話で下品なものをやるんだ。美術は宗達までだ」と言われたそう。それが今や蔦重の特別展をやれば山のように人が入る。若冲のブームもまだ25年だが、美術は動いているようでそれほど動いていない。動くのにも何十年とかかる。
- 大河ドラマ『べらぼう』の影響も大きいのだろうが、「浮世絵はおもしろい」と皆の意識がパッと変わる瞬間(パラダイムシフト)がある。浮世絵に光が当たるのは良いことだが、小学館で一冊700円(税込)のウイークリーブック『週刊 ニッポンの浮世絵100』を出したり、日本経済新聞と浮世絵の企画をしたりしても、浮世絵の本はなぜかそれほど売れなかった。
- 明治時代に入り、欧米列強に追いつくために西洋化を進めた際、「江戸の文化は下品で野蛮だ」と切り捨てられた。浮世絵は昔、やきものの包み紙として使われていた。そういう時代に浮世絵に目をつけて輸出した先見の明がある人物もいた。
- フランス語学科の教授(フランス人女性)が浮世絵好きだった。外国人からすると価値があるのだろうと思う。
→最初に歌麿を広く紹介し、魅力を広めたのはフランスの文献だった。
→今でも外国人が浮世絵を目当てに神保町へ来たりしている。 - 『江戸絵画 八つの謎』という文庫本に、若冲が錦市場の窮状を救ったという話が書かれていてすごく感動した。若冲については40歳で隠居して画業に専念したくらいの知識しかなかった。著者の狩野博幸氏は先程から話に出ている方と同一人物。
→若冲が窮状を救った資料を探したのは狩野氏ではなく、滋賀大学の宇佐美氏が江戸の経済を調べているときに掘り起こした経済史研究の資料を、大阪大学の奥平氏が紹介した。
若冲は青物問屋の出身。普通の八百屋さんの若主人ではなく、宮中にも納める野菜の総合商社のようなところの若旦那。女遊びも芸事もしない、融通の利かない絵ばかり描いている根暗な人物という評価だったが、奉行所から営業停止を命じられて錦市場が閉鎖に追い込まれそうになった際、若冲が筆頭となってお上に陳情したり奉行所との交渉に当たったりしたと言われている。
若冲の制作期間に5~10年の空白期間があるが、その活動に専念していたのではないかとも言われていて、若冲像が少し転換した。
一方で、学習院大学の小林忠氏のように「名前としては若冲が出ているが、実際には他の人が重要な役割を果たしていたのではないか」とする先生もいる。 - 金融関係の会社員。昨年まで夜間のビジネススクールに通学。神保町のビジネスや事業承継の話が非常に有益だったため、この会に参加した。
『暮しの手帖』が好き。Well-beingの先駆け的な存在で、丁寧に生きるということが神保町そのもののイメージと重なる。神保町は古くても丁寧であたたかくて幸せを感じる街。お値段以上に価値がある。それが暮らすうえで一番幸せなのではないかと思っている。
→自分が23歳で入社したときの『暮しの手帖』は、お上に異議申し立てをする運動体だった。朝の連続テレビ小説(『とと姉ちゃん』)の主人公にもなった大橋鎭子が花森安治に「二度と戦争を起こさないような雑誌を作りたい」と持ち掛けて創刊した。「暮らしが豊かだったら人は戦争をしない」というのが大橋の考え。Well-beingというよりは「戦争反対」に基づき、日々の暮らしを豊かにするという、もっとラディカルな雑誌だった。 - 「欲しがりません勝つまでは」というキャッチコピーは花森が考案したとも言われているが(確定ではない)、彼には戦争に協力したという痛恨の思いがあった。戦後、自分のペンと行動力において雑誌制作に関わり、直線裁ちの女性服を作ったりして生活を充実させる一方で、電化製品の商品テストを行ない、メーカーに対して「こんなどうしようもない電化製品を製造してどうするんだ」ということを突き付けていた。
- 自分が入社した時の最初の仕事は、ベビーカーの安定度を測るテストだった。駐車場に8つのメーカーのベビーカーを並べ、転覆角度を見たり、明治学院大学の白金キャンパスまで子どもに近い重さの砂袋を乗せてベビーカーを押して行ったりということを連日行ない、不具合がないかを確認していた。傍から見ると、砂袋を乗せたベビーカーを8人が押しているという変な集団。「今日からは編集者だ」と意気込んでいたので、テストの様子が恥ずかしく、帽子を被って押していた。
- みんなで同じ釜の飯を食べるということで、夕飯は当番制。週1回、当番が残業食を作り、全社員で食べていた。入社したのは花森さんが亡くなって7年程経った頃だったが、5年間勤めた。徐々にサロン雑誌のようになっていったこともあり、離れることにした。
- 見方によってはWell-beingそのもの。他にこのような雑誌はなかった。商品テストではアメリカの雑誌『Consumer Reports』を参考にしていた。冷蔵庫の庫内温度のテストでは2時間おきに冷蔵庫を開け、30秒経ったら閉めるという動作を一晩中繰り返し、庫内の温度がどう変化するのかを徹夜で確認していた。
→雷の特集かなにかで、避雷針の記事を見たことがある。
→最も物議を醸したのは、「てんぷら油火災に水をかけてはいけない」という東京消防庁を巻き込んで行なった実験。今でこそ「濡れたタオルを鍋にかけて覆う」等と言われているが、あの頃は消防庁もそういう事を言っていなかった。公開実験をしたことから天ぷら油に対する考え方が転換した。 - 『暮しの手帖』といえば、藤城清治先生。三越で行なわれたサイン会に行ったことがある。先生は慶應義塾大学の美術サークル「綜合美術団体パレットクラブ」の出身だが、このサークルは現在も存在している。
- 初参加。神保町にある私立女子中高一貫校の学校職員。『舟を編む』の映画のパンフレットに主人公がこだわった紙のサンプルが入っていたが、その紙の質感に共感した。
学生たちに神保町をもっと知ってもらい好きになってほしいという思いがあり、放課後に教養講座を開きたいと思っている。ここで知り合った方々に学校へ来てもらい、神保町における学びの機会を学校の中へ取り入れていきたい。
→ぜひお願いしたい。 - 金融機関に勤務。このエリアの活性化は必要。会社の資産を最大限に活用して、いいものを投入できたらと思っている。神保町のどこに課題がありどうしていけばいいのか、考えがあれば教えてほしい。
→神保町の街らしさみたいなものを守っていくという気概は持っている。渋谷や新宿へも10~15分で行ける利便性の高さから地価がどんどん上昇したり、中国資本が入ってきたりしている。神保町に住む人も増えてきているが、スーパーが全くないため生活圏としてはどうかと思う。神保町の未来像をどう描くかは、版元としても意識しながら見ているところはある。不動産の使い方にしても、本をイキイキとさせられるブックホテルのような活用の仕方はアリだと思う。 - 神田錦町で貸ビル業を営んでいる。2年程前、神田の人たちが寄り合える場所を作りたいと1階に飲食店をオープンした。
→昔、そのビルに『週刊ポスト』の編集部が入っていた。駐車場で新入社員が慰め合いながら泣いていたり、1階の飲食店でポパイ丼をリクエストして作ってもらったりしていた。
→ビルは現在もそのまま使っている。神保町プロジェクトの「神保町を文化の街にしたい」という気持ちや、久保金治さんの「神保町を知恵の街にしたい」という考えに賛同している。非常に便利の良い場所だからこそ、いろいろな資本が入ってきたり、再開発の波に晒されたりしている。中小企業に出来ることは限られているが、こういう場で交流することで良い方向に街を導いていきたい。 - 小学館の前を通ったとき、『小学一年生』が並んでいて懐かしく思った。本にはそれぞれの思い出が集約されている。小さい頃に読んだなとか、付録がどうだったとか。そこがネットとは違う。外国の方が浮世絵を部屋に飾ろうと思って楽し気にそぞろ歩きしながらお店をのぞいている風景が、一番素敵な文化。他の街にはない、積み上げてきた歴史が神田神保町にはある。そういった資源を多く残しつついろいろな方が集まる新しい街に変えていきたい。
- 本も紙媒体ではない時代がきているし、漫画文化にフォーカスが当たったりしているが、小学館編集者の視点で、これから本をどうしていきたいと思っているか。
→出版界も漫画が全盛。集英社と比べて小学館は売上も利益も大きくない。小学館が子ども向けの学習雑誌を中心に展開していたことから別会社として集英社を設立し、娯楽部門は集英社で展開することにした経緯がある。今では『週刊少年ジャンプ』と『週刊少年サンデー』で競い合っているが、出版社はどこも厳しく、漫画を手掛けないと利益が出ないとも言われる。
意外かもしれないが、出版社は工場を持つわけでもないし、印刷も製本も外注するため頭脳さえあれば一人でもできる業態。デジタルによる利益は重要。紙はコストがかかる。紙代の上昇が利益を圧縮するが、皆がデジタルで漫画を読んでくれれば、紙を刷らずに済むため利益が大きくなる。個人的には、昔あれほどCDを購入したにも関わらず、今では自分のiPodには12,000曲くらい入っている。
ひるがえって、本について言えば、紙の質感や棚への納まり具合にこだわる人間は残るだろうし、紙媒体とデジタルは併存していくだろうと思う。音楽がレコードへ回帰しているように揺り戻しはあると思うし、全部がデジタルになるとは思わない。オーディブルのような音声読書サービスが今後どうなるかはわからない。ソフトの形態は変わっていくだろうが、文字に立脚しているとか絵に立脚しているとか、ソフトを生み出すものとしての意識は編集者が絶えず持ってないといけない。
一時期、編集者不要論が出たこともあったが、制作の初期における「先生、これはこうじゃないですか」という第三者的な視点からのやりとりから生まれてくるものが大事だと、その存在価値が今見直されてきている。そういうことは文化としてなくならないだろうと思う。
変化していくソフトの形態に対応できる出版社はあるだろうし、ソフトを生み出す能力、素養、意欲、情熱が続く限りにおいて、本という形態は変わったとしても、本に表されていたもののコンテンツは形を変えて続いていくだろうと思う。
30年前から「本はなくなる」と言われ続けてきたが、それに異議を申し立てることもなくただ淡々と本を作ってきた。パラダイムシフトは突然起こるもの。どうなるかは分からないが、編集者的な視点の問題は残り続けていってほしい。 - 昨年、新聞社を定年退職。京博の若冲展は3時間待ち、東京都美術館の若冲展は5時間待ちだった。大学時代は、本屋に関するミニコミ誌を作ったり、『東京ブックマップ』という東京23区内で本を探すためのページを担当したりしていた。
40数年前に「書皮友好協会」(本と本屋と本屋のカバーを偏愛する活字中毒集団)を立ち上げた。書皮とは中国語で「本の表紙」を意味する言葉。5年程前に本のカバーであると辞書に記載された。それが一番の功績。
書店が減少するとオリジナルのブックカバーも減ってしまう。地元の由緒ある本屋のブックカバーは、有名な画家が描いていたりする。5年程前までは、毎年、書皮大賞等を選定して頼まれてもいないのに表彰状を贈っていたが、目新しいところがなくなったため現在は止めている。
→沢野ひとしさんの絵を使った書皮がほしくて御茶ノ水の「茗渓堂」まで買いに行っていた。
→学生の頃はそのための旅をしていた。オリジナルではなく取次の商社が作っているブックカバーもあるため、新しい本屋へ行くとカバーをかけるまで待って、オリジナルかどうか判断していた。今はあまりなくなったが、電車で読書をしている人のブックカバーを見ると、その人が降りる可能性のある駅を全て推察できた。これは日本だけの文化。韓国にもあったが、省資源のため強制的に廃止された。海外ではブックカバーも栞も商品なので集めたりはしない。
→書皮の展示会を開催してほしい。
→東京堂書店に昔ギャラリーがあった頃、ブックカバーの展覧会をしたり、図書館に頼まれて貸し出したりもした。 - 『暮しの手帖』を辞めて小学館に入社するまでは、どのような活動をしていたのか。
→『オレンジページ』で料理編集者をしていた。当時は110万部くらい売れていた。
→『暮しの手帖』から『オレンジページ』への転職は、心情的にはどうだったのか。
→『暮しの手帖』の大橋鎭子と同じくらいの実力の持ち主で、ダイエーの秘書室長に転出した先輩から、『オレンジページ』をやらないかと声をかけられた。オレンジページではビジネスクラスでハワイへ連れて行ってもらい、読者用のプレゼントを買う等、勢いのあった時代。撮影道具(お皿やお箸等)を抱えて先生のお宅で撮影し、帰社してから原稿を書いていた。20人程いる編集者のうち、男は編集長と自分の2人だけ。 - 環境NGOの代表。1980年代~2000年代初めまで神保町でデザイン会社を経営していた。はみ出し自販機訴訟の原告をしていた時、皇居と霞が関以外の千代田区を路地裏まで含め各地区担当が写真を撮って周った。1990年代初頭まで自販機が公道にはみ出していて、ベビーカーや車いすの人が通れない状況が生じていた。この訴訟を契機に、現在のような奥行きの浅い自販機への改良がなされた。
当時、神保町で楳図かずおさんをよく見かけた。地下の喫茶店へ行くと、編集者と打ち合わせをしていたりした。
コロナ禍で中断していたが、今度子連れの街歩きを行なう予定。
→絵本を出版したことがあり、ブックハウスカフェで展示会を開催した。
→読み聞かせとして小学館の絵本を使ったりしたことはあるのか。
→ない。やってみたい。
→楳図かずおさんは時々遊びに来てくれていたが、広い意味でおたく評論家が小学館へ殴り込みに来たことを契機に入館証がなければ入れなくなってしまった。出版社はオープンで誰でも遊びに来られる場所でなければいけないと思っているし、無駄話の積み重ねによって企画が豊かになっていくと思っているが、アポイントメントや入館証に記載しないと入館できない時代になってからつまらなくなってしまった。
そういう自由な環境が出版社にはあったと思うが、時代の流れで致し方ないが文化としては杓子定規な会社になりつつある気はしている。 - 神田明神で仕事をしている。大学生の頃、ミニコミ誌を制作していた。渋谷陽一氏の『rockin’on』を目指して起業しようと思い、8つくらいの大学の学生を集めて『月刊フルハウス』という雑誌を出していた。検索してみたところ、古本が3,000円で売られていた。当時の値段は180円。和文タイプライターで本文を打ち、見出しだけ写植機で印字していた。
→自分は1984年に創刊したが、和文タイプライターを買うかワープロを買うかで悩んだ。当時はワープロが100万円くらいしたが、30万円の中古を買った。
→一志治夫(ノンフィクションライター)氏や遠藤諭氏(元『月刊アスキー』編集長)等も在籍していた。
→当時は雑誌文化がいろいろあり、『rockin’on』ばかり読んでいた。未だに岩谷宏の影響下にある。
→その前に『ぴあ』やリクルートの成功があった。
→『WonderLand』から『宝島』という路線も楽しかった。編集長が植草甚一氏から片岡義男氏になり、大橋歩氏が表紙を担当していた。
→『ハッピーエンド通信』は、あまり長く続かなかった。
→今のZineにつながるようなものだが、部数を売るぞという気概はあった。
→毎号3,000部で一年売れれば、3種郵便(日本郵便が承認した定期刊行物を低廉な料金で送付できる制度のこと)が取れた。当時、企業のPR雑誌が3種郵便の承認を取ったりしていたため、規制が厳しくなってしまった。
→3種郵便を取ると郵送費がグンと安くなるため経営が楽になる。年間で10回以上発行する雑誌だと送料がかなり安くなるため、ミニコミ誌より一つ抜き出た感じになる。
→中小零細出版社は3種郵便を取れるかどうかが生命線だった。
→許可制だったため、刊行実績を積み重ねる必要があった。 - 神保町好き。父親が古本好きで小学生の頃から来ていた。父親のルールで夜20時以降は大河ドラマとNHKしか見られなかった。小学館というと『少年少女世界の名作文学』。ヨーロッパ好きだったのでよく読んでいた。
- 私立女子中学校・高等学校の教員。大学院時代、小林忠先生の授業(浮世絵や歌舞伎等)を取っていたため懐かしく感じた。本離れと言われていても、出版社や編集者を希望する生徒が学年に数人はいる。そういう生徒から「何をやっておくといいか」とアドバイスを求められることがある。出版社や編集者に必要な資質等があれば教えてほしい。
→分野がたくさんある。漫画が好きな人は漫画、文学が好きな人は文学といった感じで、汎用性があるようで、ない。ただ、漫画の編集者は山のように漫画を読んでいる。自分は美術が好きだったから、『日曜美術館』を毎週欠かさず観ていた。本なのか、他のものなのか、コンテンツの在り様はいろいろあると思うが、気づいた人間が気づいたなりにやり続けるしかない。深夜の2時~3時まで仕事をし、1年のうち300日くらいタクシーで帰宅する時期もあったが、「好きなことをやっている」ということしか自分を支えるものはない。編集者の仕事は終わりがない。帯の文言も、四六時中考えている。寝ているときに頭に浮かんだり、打ち合わせでビールを飲んでいるときに浮かんだりする。
気付いた人間が気づいたなりにその道を極め、最終的なコンテンツにしていく。編集者であろうがテレビの制作者であろうが、好きなものを極めるしかない。「漫画を好きになれ」と言われても、読まない人は読まない。それは仕方ないと思う。 - 浅く広くといったディレクター的な在り様もあるが、「これは好きだ」というものは極めた方がいい。やり続けることでしか自分の生きた痕跡を残すことはできないというくらいの想いもある。
- 「エド・イン・ブラック―黒からみる江戸絵画」という板橋区立美術館で開催されていた展覧会がよかった。あまり知られていないのが不思議なくらい。若冲の「夜の巻物」を見て素晴らしいと感じた。
→「乗興舟」はすごくいい。
→展覧会の企画自体も非常に素晴らしかった。
→若冲の花鳥の版画は、今の技術をもってしてもどう擦ったのかが分からないため、再現しようとしてもできない作品がある。
▼今後の予定
- 第12回は7月24日(木)に開催予定(於:千代田プラットフォーム)。ひじりばし博覧会で学生発表会を行なった明治大学の3年生がゲスト。
- 8月はお休み。
- 第13回は9月9日(火)。 紙の専門商社である竹尾の方をゲストに迎える予定。

