| 日時 | 2025/11/19 19:00~20:15 |
| ゲスト | 渡辺 達朗 氏(専修大学商学部教授) |
| 場所 | YON(肆)地下一階 |
| 参加者 | 10名 |
※発言者敬称略
▼冒頭挨拶【柳】
- 第15回となる今回は、学術的な内容になると思うが、近刊『神田神保町古書店街と組合組織』(有斐閣、2025年10月)の著者、専修大学の渡辺達朗教授にお話を伺う。
▼ゲストスピーチ【渡辺】
- 専門分野は流通政策。研究テーマは大きく二つある。
一つ目は、商品がメーカーから卸、消費者へと流れて循環経済を形成する、流通の動脈的な縦の流れに関するもの。
二つ目は、流通が地域商業へとつながる、横の広がりに関するもの。
自分の関心事や外部から与えられる課題に応じて、この2つのテーマに交互に取り組んできた。 - 書籍の流通に関する研究については、これまで専門的に扱ってこなかったが、千代田区の商業振興プランに10年以上関わってきた中で問題意識を持ち続けていた。
- 特に神保町の古書店という同業種が軸になりつつ飲食店等の異業種が混ざり合う非常に珍しい商業集積的な空間の広がりについて以前から関心を抱いていた。
- 現在の神保町について、近過去から現在・将来の研究課題に共著者(山﨑万緋氏)が取り組む一方、自分は裏側で戦前、特に戦時下の神保町の歴史に興味を持ち、資料を集めてきた。
- 故八木敏雄氏が創刊した『日本古書通信』(2025年12月号をもって終刊)の戦前版と、戦時下の雑誌再編の中で『読書と文献』に生まれ変わった戦前から戦中にかけての冊子とを入手できたため、それらを中心に読み込んだ。神保町の街は、こういうところから読み解いていくとおもしろいという事が分かった。
- 紙の質は年を経るごとに劣化し、コピーやスキャンをしようとすると破損してしまう。それくらい古いものを用いて研究をした。
- 戦前には、組合組織を通じて中小商業者を支援・振興しつつ統制も行なう商業政策が存在した。自分の専門分野(流通・商業政策)と重なる部分があるため、大学院生と協力しながら研究を進め、5年程かけてようやく書籍になった。
- 執筆しながら感じたのは、世の中の動きと非常にリンクしているという点。柳条湖事件、いわゆる満州事変に突入していく頃から戦時統制がじわじわ始まり、盧溝橋事件で日中戦争が勃発する1937年くらいからは、かなり意識されるようになった。
- 庶民の生活はそれほど縛られていなかったが、「二・二六事件が起きて大変なことになっている」と書かれていたりする。1941年に太平洋戦争が本格的に開戦すると、すでに様々な準備が整っていて、気づいたら戦時体制ができていたという恐ろしさを感じた。
- 生活必需品や贅沢品の統制は先行研究がある。新刊本の統制も一部あったものの、古書に対してはあまりなかった。こういうマニアックな小さな領域にまで統制が押し寄せてくる恐ろしさを感じた。
- 我々が普段接するような、店主を引退後時おり店頭に立っていたりする方々の父親世代の実名が研究資料にもたくさん出てきた。
- 戦前、古書店に突然価格統制が導入されたわけだが、それ以前の古書店の組合は法律や条例で定められた同業組合ではなく、親睦団体程度のものだった。
一方、新刊書の出版社や書店取次は早くから同業組合を作り、権益を守りつつ統制を受け入れ、自分たちの事業領域を確立していた。 - その点、古書店は組合組織づくりで新刊書店に比べて遅れをとっていた。ようやく同業組合を作った途端に商業組合にさせられ、政府の支援を受ける代わりに統制へ従うよう強制された。それが開戦直後の頃。
- 政府は組合組織を作らせ、その活動や個々の事業者に対する思想統制を行なった。マルクス関連本のみならず、極端に言えば世界地図を売っているだけでも摘発された。そういうものを全て店頭から排除し、「良本」「悪本」とされるもののうち、出版側へ良本(政府の思想統制に合致するもの)のみを出版させるよう誘導する動きが進められた。
- 結果、表の市場には「良本」だけが出回るようになり、いわば裏の市場である古書の世界で「悪書」が売られるようになった。そこへ摘発が入り、全て没収されるという思想統制的なことが、この街で起きていた。
- 組合組織の事業活動等を通じて統制を進めるとともに、組合と表裏の関係にある商業報国会を結成させて、運動会と称して招集・訓練させたり、富士山や高尾山を登って身体を鍛えさせたりして、戦時に備えることが奨励された。
- 思想言論的な統制と組織統制とがじわじわ進みながら、価格統制が行なわれた。
- 価格統制を進める上で、再流通市場で入手困難なものが活発に取引された結果、古書の値段が上昇した。政府は、物価統制上好ましくないとして価格を抑えるよう求め、古書店側が価格統制表を作成して提出したが、「君たちは古書を骨董品と勘違いしているのではないか。古書は、普通の商品と何ら変わらないのだから、一般物価と同様に一律に値付けすべきだ」と警察から言われ、ショックを受けたらしい。
- 一方、当時の商工省(現経済産業省の前身の一つ)の担当者が古書の価値に理解のある人で、古書店に寄り添いながら公定価格表を作成した。希少本と一般本とに分け、希少本は一冊ずつ値段を付けた。希少本の最高限度額を決め、その価格以上での販売を禁止し、何千冊とリストアップをした。
- それ以外の文庫本や新書は発行年に応じて格付け価格の何割引とし、何度か改定を繰り返した。そこまでするのかと驚いた。
- 一般の和書と、和本(江戸時代以前の和綴じの本)にも値段を付けた。
- 輸入本は徐々になくなっていき、終戦近くになると世の中に輸入本が存在しないかのようになっていった。
- 開戦前から価格表を用いて価格を抑え、価格・組織・思想という三位一体の統制が進められた。
- 日本全体の消費財の流通や一般国民の消費支出に占める本の割合は非常に小さかったが、そんなところにまで統制を及ぼしたのは何だったのか。統制が一気に浸透し、それに逆らうことができなかった点に一番驚いた。
- こうした経済統制の裏で青写真を描いていたのが岸信介と椎名悦三郎。古書についても岸の名前で通知が来ていた。
- 戦前の神保町は、古書の街であると同時に、東京で有数の繁華街だった。大正〜昭和初期には映画館や芝居小屋もあり、明治の初期には勧工場(デパートの前身)があった。現在の専修大学から水道橋に向かう途中にニチレイ水道橋ビルの大きな看板が出ているが、その辺りにかつての勧工場があり劇場も併設されていた。
- 古書の街としての形成が始まったのは明治20年代くらいから。三崎町や駿河台、淡路町、小川町などを含めたグレーター神保町で捉えると、繁華街としての神保町が戦後の一時期まで続いた。学生や社会人の生活スタイルに合わせて衣料品店や帽子、賞状や楯を扱うお店もいくつかあった。
- 戦後の神保町については、いろいろな見方がある。それほど知見があるわけではないが、戦前の繁華街としての多様性・煩雑性・雑居性を引き継ぎつつ、土地と建物の所有者が一致していたことから、少なくとも表通りは90年代のバブル崩壊やリーマンショックを乗り越えることができた。
- これから先、耐震性の問題もあり建替えを行なう中、表通りの統一性をどう保っていけばいいのか。裏通りは侵食された街になっている。
- 大家や地主は、小学館や集英社。そういう中で、多様な新しいものが生まれては消えていっている。サブカルチャー、ダイバーシティの街。
- フリーランスの外国人女性記者と話をした際、神保町はオーセンティックな街、本物の街、ということが一つの切り札になっている点で一致した。まったく逆のスノッブな街、俗っぽい街には決してなってほしくない。
- 夜の神保町ということだが、18時に店を閉めてもいいのではないか。そこから先の時間は、別の形であってもいいと思う。あくまでも事業が成立するという前提でだが、本物のお店は18時に閉めて日曜は営業しない等、プライドを見せてほしい。
- イギリスでは、古書店街は消滅しているものの、希少本やアンティーク本のお店は町の中心部に一定程度ある。先日のヨーロッパ出張で夕方の仕事終わりに行こうと思ったが、営業時間外で開いていなかったり、土日も休業日で閉まっていたりしたため訪問できなかった。
- 神保町は本物を売る町であってほしい。いろいろなお店が新陳代謝していくのが生きている街の証。シェア型書店やホテル等、本をキーワードに新しい形態のお店が出てきているが、そういう事にはどんどんチャレンジしていくといいと思う。
- 古書店は従来のコンテンツだけではなく、サブカル的な要素(ボードゲームやアイドル関連グッズ等)をどんどん取り入れており、インバウンド観光客を惹きつけている。中には「店に客が来なくても、ネットで熱心な客が来てくれればいい」と割り切っている店もある。
- 技術書や版画を扱う店では、店頭で商品を雑多に扱われたり数千円の商品を売ったりするよりも、価値の分かる人に高額商品をしっかり売る方が良いのかもしれない。
- 店主を引退しようとしている70代〜80歳の人たちが、終戦後に生まれた世代。8月15日に神保町の街で玉音放送を聞いた人とお会いしたことがある。
- 敗戦当時は子どもと共に貴重本も疎開(新潟の長岡市等)させていた。
▼懇談会
- 古書の価格統制をどう行なっていたのか、戦時中の言論統制に関心を抱いていた。
- 「君たちは骨董品を扱っているわけではない」という言葉は、古書店主のプライドを傷つける強烈な言葉だっただろうと思う。
- 古書は、貴重な情報入手ルーツで、学生街だからこそ神保町に古書が集まったと言われているが、円本(定価が一冊一円の廉価な全集のこと)ブームは世界恐慌が起こるとすぐに衰退してしまった。学生にとっては一円すら高かったが、その古書で学生は学んでいたと聞いた。改めて、古書の重要性と官憲がそこにまで目をつけていた事実を認識した。
- 統制を受けていた当事者の子ども世代からのヒアリングになったため、記憶も曖昧で父親世代が受けていた統制と関連する話はなかなか出てこなかった。
- 中村隆英氏の名著『日本の経済統制-戦時・戦後の経験と教訓』では、どうしてこれほどまでに統制が広がったのか、実際に行なわれた政策等が書かれている。
- 協同組合主義的な計画経済の流れを持つ人々(左派)と、岸信介のように国家主導の経済統制を志向する人々(右派)が融合して、矛盾を抱えながらも統制が進んでいった。日本の経済史の中で、自由経済を重視する人々と計画経済を重視する人々に分かれたが、最終的には計画経済派に流れていった。この流れがどこでどう形成されたのかを突き詰めることは難しい。
- 統制経済は、当時の状況で必要最低限の仕組み(エコシステム)を整えようとした。
単なる言論統制ではなく、思想的な洗脳であったり国民の考えを国家の望む方向へ導いたりするために、国家にとって都合のいい本を読ませる仕組みを作ろうとした。
一方で、書籍は市場で読者がお金を払って買う必要があり、政府が無料でパンフレットを配るわけではないため、売れる形で流通しなければならない。「良書を流通させ、悪書を追放する」というシステムは、思惑通りにいったのか。
→「悪書」の追放はそれなりにうまくいった。表に出せない本は裏の流通ルートで広まり、古書に流れて隠れキリシタンのように個人間で受け継がれていった。「良書」は学校教育で刷り込んでいったのだと思う。 - 当時、紙は非常に貴重だった。統制は、印刷やインク等の上流から締めていくという手法で行なわれた。
- 最初に「統制」と聞いた時、GHQによる統制だと思った。戦後、GHQは古書店街に対して何らかの規制を行なったのか。
→価格統制はなかったと思う。
→当初は割と自由化を進めていった。
→新刊書は全て検閲されていたが、古書は、しらみつぶしに見るわけにもいかない。戦前は出されたものが禁止されたため、何が検閲されたかのかを知ることができたが、GHQの場合にはそれが一切出てこないため、分からない。
→新刊書は図書館に入っていた。日比谷図書館から40万冊程疎開したが、そのほとんどをGHQが持って行ってしまった。当時の本には、武道や天皇崇拝的なものが多数含まれていたが、これらはGHQの方針に照らし不適切と判断された。 - 露天商のような路上販売は、GHQが禁止したと聞く。秋葉原やアメ横等には闇市が広がっていたが、露天商を撤去するために靖国通りの整備をしたとも言われている。もし、神田の古書店も空襲で燃えて店舗を持たない露天商としてやっていれば、撤去されていたはず。
- 関東大震災で神田の街は多くが消失した。震災後に建て直された建物が、現在の神田のレトロ感を形成している。大学の蔵書も大量に焼けてしまい、東大図書館の復旧が古書店街の特需となった。
- 関東大震災後に露天のバラックで本を売っていた資料を見せてもらったことがある。幸い、大戦では建物が残ったため、露天商をしなくてすんだと聞いた。
- 新刊の場合、戦時中の統制は日本出版販売株式会社(NIPPAN)を含む新出版体制のもとで行なわれ、内閣情報局及び商工省の両方が関わった。情報局はあまり関与しなかったのか。
→情報局は、古書店の「商業報国会」等を作り、そこが企業動員の仕組みのベースとなった。
→当初は古書店を商業者として見ていたが、次第に公定価格制度のような統制へ移行していったのではないか。戦時下で新刊が減少し、店頭に並べる本が不足したため、古書を大量に買い漁って送ったという話が残っている。 - 新刊は書店も再編されて数が減らされたが、古書も同じことが起きたのか。
→店舗の再編は起こらなかった。家族経営等の小規模事業だったため、勤労動員に出されて商売ができなくなっていった。 - 古書の情報誌『日本古書通信』は再編の対象になり、他の雑誌と統合し『読書と文献』として何とか生きながらえた。
- 出版統制は用紙統制。出版計画書を文教局へ提出し、用紙の配給を受けるというスタイルだったと思うが、『古書通信』もそういう形で用紙を申請していた。
→雑誌の枠の中で行なっていたという意味では、出版社だった。 - 「統制には出版の受難史という捉え方は成立しない、協力していたんだ」と書かれている点がおもしろかった。古書店にとって、出版統制は都合がよかったのか。
→自分達の既得権を守るためには、協力せざるを得なかった。古書は法律で守られている世界。新古本を扱っていた店は、業界から差別的な取扱いを受けていた。新刊と古書を両方取扱う店も少数ながら存在した。 - 特価本と称して新刊を安く売っているような店はもうないのか。
→部分的に存在する。 - 神保町は集積がおもしろい。出版社も小売店も古書店もある。これらを維持できている理由にはどのようなものがあるのか。高級な浮世絵にしても、ネット環境があれば自宅でも事業ができそう。なぜ神保町に集まってくるのか。
→高級商品は、神保町という住所(登記)がほしい。出版社も神保町にあると老舗という感じがする。神保町は古書店だけでは成り立たず、古書店だけだとすると「つまらない街」になってしまう。人が生活し、学校に通い、働く中で日常生活に必要なものが揃っている。新陳代謝が進む日常生活と本屋が共存していることが、神保町の魅力なのではないか。 - レストランと古書店の利用者層が乖離している。神田古本まつりでは普段見かけない人が集まるが、複数の層の人々が街を回遊している気がする。
- インバウンドの観光客はルートが決まっている。神保町には公衆トイレがないため、お手洗いも一定の場所に集中するらしい。
- 観光バスに乗った中国人観光客が大勢来街しているが、何が目的なのか。
→サブカル系の雑誌、アニメ、絵本、ジャパン品質の綺麗な印刷物等。
→文化大革命の時期に中国から逃れてきた書物が日本に残っているが、それらを買い求めて来街したようだ。組合市でも高値で取引されている。
→昔古書店主から、「最近(当時)は高く売れる」という話を聞いたことがある。一時、「宗版」「明版」と呼ばれる古典籍がブームになった。地方の豪商・豪農が所蔵していたものはみな焼却されたため、中国国内では決定的に失われてしまった。 - ヨーロッパの場合、古書店街は計画的に作られてきたが、神保町の場合は自然発生的に生まれたとの説明があった。自分たちが教科書的に教わったところでは、明治初期に法律学校(後の大学の前身)ができ、そこの学生が教科書等を求めて古書店が形成され、それに関連して出版・印刷・取次が集積してきたという話だった。
そうだとすると、法律学校を神保町に作ったのは計画的だったのではないか。土地がたくさんある都心の便利な場所ということで、計画的に学校を誘致したのであり、自然発生的に形成されたわけではないのでは。
→学校は最初から神保町に集中していたわけではなく、便利だからと移転してきたケースも多い。計画的に立地したのは官学。官学の先生や中央官庁の役人たちが新しくできた私立学校にアルバイトとして教えに行っていた。
→湯島聖堂があったことも大きいのでは。
→駿河台下は土地が安く、武家屋敷がなくなって広い土地が残っていたため、学校等が集まりやすかったのかもしれない。 - 神保町での価格統制は、他の地域にも波及したのか。
→商業組合を作る段階で東京と各地域の組合とをまとめ、全国組織を作らせた。それがどこまで浸透したかは分からない。
→公定価格は、全国一律の定価販売を強制する力を持っていた。3段階の流れ(同業組合→商業組合→統制組合)の中で、商業組合化後、すぐに統制組合へと移行したため、国家の統制力がより強くなった。
→八木さんの父親世代が、「こういう取組をしているので、皆さんも行なってください」と伝えながら全国行脚していた。
▼次回の予定
- 今年の夜学は今回で終了。12月はお休み。
- 来年は1月から再開予定。
