第2回 出版セミナー 「地図と写真に見る神保町書店街の発展史−武家屋敷町から学生街へ」

出版セミナー
日時2024/10/26 18:30~20:00
登壇者小林昌樹氏(『近代出版研究』編集長)
参加者10名

▼登壇者発言概要

  • 約30年国会図書館の図書館員をしていた。地図室という特殊な部屋に勤務していたことがあり、地図には興味があった。また、レファレンスライブラリアンとして、利用者からの資料探し相談の対応をしていたため、資料に多少通じている。
  • 江戸時代には本屋街は別の場所にあったが、明治時代になってから神保町に集まってきた。神保町は元々武家屋敷の町であり、学生街になってから本屋の街になった。
  • このことは既に本に書かれており、「東京古書組合五十年史」に詳しい。ただ、詳細な地図や写真を使って説明しているものはあまり見たことがない。
  • 寛永年間から商業出版が始まった。江戸時代の本屋としては鶴屋喜右衛門の鶴屋が有名。
  • 当時の本屋の店頭の絵から、外側に箱看板を設置しているのが分かる。本の卸売業も兼ねていた。店先に平積みになっているのは錦絵。店の中に上がるのは上得意のみであり、普通の客は店先に座って本を出してもらう形式だった。
  • 江戸時代は日本橋から銀座方面のところに本屋街があり、3つの同業者組合があった。当時の本はとても高価だったので庶民は貸本屋から借りて読むのが普通だった。薄い続きものが多かったので、貸本屋が客の住まいに取っ替え引っ替え本を持ってくるのがほとんどだった。
  • 薄い本や錦絵は絵草紙屋で扱われた。蔦屋耕書堂という絵草紙屋の店先を描いた絵では、店の入り口に蔦屋重三郎の名前入りの箱看板が置かれている。
  • 1990年代末に長い絵巻物「熈代勝覧」がベルリンで発見された。ネット上で見ることができる。江戸時代の日本橋界隈を描いた絵巻で、「書林」などの本屋が描かれている。
  • 丸善が日本橋にできた当初は、江戸時代と同じように座売りをしていた。たたきの上がり框に座って本を選ぶ形式で、店先に箱車が置かれていた。奥に二階に上がる階段があり、当時の大学生は断りなく二階に行くことができた。
  • 江戸時代には露店が各所にあった。江戸橋の南側の広場に露店街が形成されていて、約100軒中7軒、すなわち7%が古本屋だった。鎌倉河岸にあった露店の古本商の絵が残っている。また、横浜の古本商の「横浜写真」もある。これは明治時代に外国人に売られたもの。
  • 幕末の神保町は武家地であり、江戸幕府の旗本(将軍の顔を直接見ることができる職員)が住んでいた。復元地図上では地割りが細かく、家紋が入っていない。「神保伯耆守」(じんぼうほうきのかみ)という旗本の屋敷前が「神保小路」と呼ばれていて、これが神保町の起源になったと言われている。
  • 明治初期の神保町の地図を見ると、神保町の南側に開成学校(東京大学のこと)がある。湯島聖堂が図書館(書籍館)になっている。
  • 明治10年代になると小川町の方に書店ができ始める。有斐閣、開進堂、三省堂、中西屋。
  • 明治22年の写真「全東京展望写真帖」を示す。ニコライ堂から全東京市中を撮影したパノラマ写真で、神田、九段下、神保町など当時の街並みがよく分かる。馬車鉄道が写っている。秋葉原が原っぱだったことも分かる。
  • 明治25年猿楽大火で屋敷街から書店街へ。明治35年頃、三省堂のあたりはショッピングモール(勧工場、東京各区に2〜3館あった)だった。当時は小川町の方に書店が多かった。
  • 丸善の安売り支店である中西屋は土蔵造りで、明治30年頃は、履き物を履いたまま中に入って直接本を手に取れる形になっていた。
  • 1907年(明治40年)の神田区は、市電の敷設ですずらん通りより靖国通りが表通りになっていた。
  • 中西屋書店の1910年前後の内部写真を示す。土間式+本棚となっていて、本棚に鍵はかかっていなかった。
  • 三省堂も徐々に大きくなっていった。1903年(明治36年)の写真を見ると、学生が店先で立ち読みをしている。店先に出している本の看板タイトルで何年の写真かが分かる。
  • 神保町の大正時代の写真はあまりなかったが、絵葉書になっていた。左端の看板は「文盛堂書店」と読み取れる。
  • 1923年に関東大震災で本屋街は全部消失した。
  • 1925年前後と思われる絵葉書を見ると、東京堂があるため、すずらん通りと分かる。
  • 1927年の写真では、東京堂の店頭で立ち読みをしている様子が分かる。「立ち読み」は外国でも行なわれているが、「立ち読み」に該当する言葉が見当たらない。同じように「積読」という言葉が英語になりかけているらしい(現象としてはあるが言葉がなかった)。
  • 1937年のすずらん通りの写真を示す。文房堂と三省堂の前あたりから撮影したもの。 古本が安く買えた。ブックエンドらしきものが見られる。スチールの組み立て本棚もいつからあるのか調べたら、昭和34年から丸善が売り出したものらしい。木の本棚は明治の後半くらいから。
  • 昭和10年頃の神保町は、住宅地図の代替となる「火災保険地図」と突き合わせると、本屋の間の路地を入ったところに飲食店があったことがわかる。当時は学生がたむろするカフェがいろいろあった。また、当時は冨山房の方が三省堂等より立派な建物だった。
  • 一誠堂は1933年頃の創業三十周年記念絵葉書が残っている。隣の店で本に帯をかけて値段が分かるようにしているのが分かる。のぼりも立てている。戦前の絵葉書はコロタイプ印刷なので拡大してもぼやけずによく見える。
  • 昭和20年の空襲でも、神保町古書店街は戦災を免れた。復員船に貼り出された地図には神保町も焼けたことになっているが。
  • 古本マニアの発展段階:Step1普通の本好き、Step 2古本初心者(古本屋で懐かしい本を買う)、Step 3マニア入門(特定領域の本を買う)、Step 4立派なマニア(古書目録(古書販売サイト)で買う)、Step 5ディープなマニア(手段を問わず買う)、Step 6達観期(収集領域の全体像がわかった気分になるのであまり買わなくなる)

▼質疑応答

  • 本が日に焼けないように靖国通りの南側に古本屋ができたと思っていた。→歴史的には結果的に、たまたまそうなっただけ。後付けの理由ではないか。明治35年の地図(昭和46年古書祭りで古書組合が配ったもの)でも小川町の北側に大きな店が並んでいた。すずらん通りも北側だった。
  • 巌松堂(学術資料)は不動産会社に転身したが、そうでなければ一誠堂(古典籍)の一強にはならなかっただろう。
  • 明治時代の高等貸本屋(いろは貸本店等)はポピュラーライブラリー。
  • 専修大学交差点と名前がついているのは、「専修大学前」という都電の停留所があったから。
  • 一誠堂の正面入口部分は一段だけ後付けの階段がついている。周囲の地面が地盤沈下で下がったため、歩道側に段をつけた。
  • 本屋の絵葉書はあまり多くない。一方、公的な建物は建設時に必ず出すため図書館の絵葉書は多い。
  • 空襲は事前に予告があるので疎開させられるが、震災はそれができないので消失した書物が多かった。
Copied title and URL