日時 | 2025/3/18 19:00~20:30 |
ゲスト | 鳥居 繁氏(五十稲荷神社 宮司) |
場所 | 廣瀬与兵衛商店(神田錦町) |
参加者 | 14名 |
※発言者敬称略
▼冒頭挨拶【柳】
- 本日は、神田小川町にある五十稲荷神社宮司であり、かつ神田神社権禰宜をも務める鳥居繁さんをお招きした。五十稲荷神社は1600年(慶長5年)にはすでにこの地に鎮座していたとされている。小川町生まれ小川町育ちで、五十稲荷神社の運営に携わっている鳥居さんから、神保町周辺における地域文化や神社の歴史、そして新たな神社のあり方についてお話しいただく。
▼ゲストスピーチ【鳥居 繁】
- 柳先生とは、神田明神で崖東夜話(東京文化資源会議のプロジェクトの一つ)を開催していたご縁で知り合った。
- 五十稲荷神社は、令和2年に御社殿と社務所兼自宅を建て直し、令和3年の5月から家族6人でここに住んでいる。地元の地域雑誌『KANDAルネッサンス』112号の表紙に新しい五十稲荷神社のイラストが描かれているが、そのデザインを担当してくれた方(なかだえり氏)に、当神社のパンフレットを作成してもらった。御由緒等はあまり載せられなかったが、寄り道マップに地元のお菓子屋さんやお蕎麦屋さんの情報を入れた。InstagramやX(旧Twitter)を通じて広報をしているところ。
- 焼け野原になってしまい古文書等はほとんど残っておらず、言い伝えの部分もあるが、江戸時代にもともとお社があったところへ栃木足利戸田藩の大名屋敷ができ、その屋敷内に神社が入った。その後、足利の織物を売るために五と十がつく日に屋敷の門戸が開かれ、一般参詣が行なわれるようになった。
- 明治時代になってもお社だけは残り、後に縁日が立つようになった。「五十様の縁日」と呼ばれ都内では有名で、当時の新聞記事も残っている。
- 現状、縁日を復活させるのは難しいが、足利藩とのご縁は復活した。五十稲荷神社の正式名称である「栄寿稲荷神社」は栃木県にある足利藩ゆかりの「栄富稲荷神社」から名前を取っている。足利市役所の方が個人的に活動しているグループが「栄富稲荷神社」の御朱印を復活させ3月9日に1日限定で頒布しようとなり、こちらからもアドバイスをした。「栄富稲荷神社」には神主がいないため、いわゆる書き置きの御朱印を頒布したそうだが、100人を超える方がお参りにいらっしゃったとのことで、復活したご縁をもとに今後はコラボレーションを行なっていきたい。
- 「五十稲荷」と呼ばれるようになったのは、毎月五と十のつく日に縁日が立ったから。今は神田小川町という住所だが、戦前は表神保町と呼ばれていた。今回も「神保町夜学」ということで、ご縁を感じている。
- 関東大震災までは靖国通り側に約200坪の境内地があったらしいが(約40年前に神田学会が発行した書籍に掲載されている、明治時代のニコライ堂の上から撮影した写真が残っている)、震災後の土地区画整理により現在地に縮小移転(約50坪)された。
- 一昨年から南側の道路に「五十通り」という名称が復活したが、これは当神社の裏にある「更科」というお蕎麦屋さんの主人が働きかけてくれたおかげ。「更科」の現主人のお父さんが、小さい頃に「更科」で丁稚奉公していた漫才師の内海桂子氏におんぶされて「五十様の縁日」を歩いていたご縁から尽力してくれた。区からも正式に認められ、「五十通り」の名称ができたことを誇りに思っている。
- 小川町錦町エリアは、神田明神の氏子地域であって五十稲荷神社の氏子地域ではない。
- 蛎殻町の水天宮も久留米藩有馬家の藩邸内に創建され、久留米藩がなくなりお社だけが残ったという形態だが、五十稲荷神社もそれと似ている。
- 少しでも皆さんに知ってもらおうと御朱印を作りInstagramに載せたところ、人気が出て一日や十五日には行列ができるほどになった。御朱印は10年程前からブームだと言われているが、未だに続いている。流行り廃りもあるらしく、切り絵の御朱印を出しているお社もある。当神社が誇っているのは、全て手作りということ。ゴム印対応はしているが、印刷は一切かけていないため売れ切れることもある。
- 社務所で猫を飼っており、御朱印に登場させたところ人気が出て、2月22日の猫の日には家族6人総出でも人が足りず、アルバイトを雇わないと回らないくらい参詣者が増えた。
- 千代田区内に神社は9つあるが、神主が住んでいる神社は当神社を含めて4つのみ。千代田区内には、大きなもので神田神社、赤坂の日枝神社、東京大神宮等がある。神主が住んでいるのは当神社と、九段にある築土神社、平河天満宮、三崎稲荷神社の4つ。駿河台の太田姫稲荷神社と秋葉原の柳森神社には、昔は神主がいたが今はいない。
- 社殿と社務所兼自宅を建て替えるにあたり、当初は鉄筋コンクリートにしようと思ったが、予算が足りず木造2階建にした。和モダン風の建物で大変好評を得ている。神社とマッチして良かったと思う。夜には境内をライトアップしたり、手水鉢にセンサーを付けて水が出るような仕組みにしたりと境内整備を進めている。
- 小さいお社のため、自分で何かを始めて資金を生み出さないと次へ進めない。今まで無名に近い神社だったが、Instagramに出てくるので「すごいですね」と声をかけられるようになってきた。触発されて御朱印を始める町の小さな社も出てきたので、少しでも力添えできるよう今後も続けていきたい。
- 御朱印だけだと神社としては物足りないところもあり、御守等も出していく必要がある。お稲荷さんは、五穀豊穣や商売繁盛の御神徳がある神様。当神社は江戸時代に徳川家から安産祈願があったという記録が残っているため、安産の御守や黒豆(黒豆を煎じて飲むと妊婦さんに良いという言い伝えがある)を記念品として差し上げたり、昔行なっていたことを復活させたりしている。
- Instagramを見て驚かれる方もいるかもしれないが、妻のアイデアできつねの尻尾をかたどったピアス・イヤリングとネックレスを作った。御守は身に着けるもので、ただの装飾品ではない。素材も敢えて錫を用い、錫の加工品が盛んな富山県で工芸品を制作している方に依頼してオリジナルのものを出している。
神社は守ることも大事だが、実験的な意味も含めて最近は積極的に新しいことを行なっている。 - 神主で鳥居という姓は珍しく、都内でも数えるほど。神田明神の先代の宮司は大鳥居という姓で、太宰府天満宮の流れを引いている苗字。亀戸天神社の宮司も大鳥居さん。京都には小鳥居さん、鳥居さんがいる。
- 父の時代は、別の仕事もしていたためさほど神社の仕事に積極的ではなかった。私も神田明神にも勤めているが、五十稲荷神社のお社が復活したためいずれはこちらへ専念したい。
かつてはブロック塀があり暗い雰囲気だったが、建て替えにより塀を低くして開放的な境内にした。通りかかった方に木々を感じてもらえるよう、草花もこれから増やしていきたい。 - 神田明神とは、神社としては別。関係はあまりない。独立採算制のため、大きな社でなければビルの家賃収入や駐車場収入等、神社以外の収入源を確保しないと大変なのが現状。
▼挨拶【吉見(東京文化資源会議会長)】
- 神社は地域の要。現在、國學院大學の観光まちづくり学部観光まちづくり学科に所属しているが、日本の神職に就いている7割程度の方が國學院大學の卒業生。いろいろな話を聞くと、神社がいかに地域のコミュニティやまちづくりに重要かがよく分かる。
東京文化資源会議では、鳥居さんや神田明神、湯島天満宮等の神社に加えて、寛永寺や東京復活大聖堂(ニコライ堂)にも協力いただき、「崖東夜話」というイベントを継続的に行なってきた。
「崖東夜話」や「神保町夜学」も、夜の遊びの時間や夜の空いている時間は、最も知的・文化的で、そこから何かが生み出される場だと確信している。
今夜のように鳥居さんのお話を聞いたり、神社と地域の関係や神保町の未来について歓談したりしながら、それを東京文化資源会議全体の活動へつなげていきたい。
▼懇談会
- 何人くらいのスタッフで神社を運営しているのか。
→普段は3人(妻、息子と自分が手伝いに入る)。今は5種類ある御朱印のうち2種類だけ書くようにしているが、それでも行列ができる。猫の日は息子の友人にアルバイトで来てもらい7人で行なっている。書き置きは前日までにたくさん作成しておくが、実際に書くのは当日でないと受付できない。 - 御朱印にクリームソーダや昭和のテイストを入れる等、トレンドを上手に押さえているように感じる。
→トレンドを狙ったわけではなく、瓶子(神様にお供えする白い器)とクリームソーダが似ているからそれでやろうかという感じだった。
→山の上ホテルも、今すごくそういうテイストにしている。
→山の上ホテルへも、閉館の案内が出た際に名残惜しいから食べに出かけた。
跡地は明治大学が買い取ったらしいが、まだ壊してはいない。大事なものは残してほしいが、耐震の問題はある。 - 私の場合は実家があり、神主としてだけでは家計が成り立たなかったので他に勤めていた。地方へ行くと、お社は残っているものの神主がいないため、一人の神主が兼務しているところがある。普段は町の方々がお掃除してくれているが、お正月やお祭りの時だけ神主が祭典を行なっている。千代田区・中央区界隈でも、たとえば宝田恵比寿神社は神主が常駐していないので、神田神社から兼務している神主が出張してお祭りを行なっている。
→個別な繋がりはあると思うが、全体的に統括している組織はあるのか。
→全国規模では神社本庁が、東京には東京都神社庁という組織があり、そこがいわゆる事務的なまとめをしている。学業を終えて神主になる時には神社本庁へ登録する。 - 千代田区で選挙をするにあたり稲荷神社を全て車で回ったところ、ここ(五十稲荷神社)しかない、ここはすごいと稲荷ファンの皆から言われた。私も毎日参詣しているが、たくさんの人が訪れている。
選挙の世界は、最後は神頼みだったりする。信仰に対してうんちくがある人ばかりだが、千代田区でどこが良いかと聞いたところ五十稲荷神社だと教えてもらった。 - 神社は神主が住んでいるかどうかで違う。神主がいないと活気が出ない。それで引っ越してきた。神主がいる以上、お社や神様を守ることが一番大事。借金を背負ってでも建物を建て替えて自分達が住もうと思った。御朱印が人気となって最近は韓国や中国の方も来るようになり、少しずつ借金も返せるようになってきた。
→毎日、五十稲荷神社へお参りしている。Xで宣言してもいいか。
→ぜひお願いしたい。費用がないため広告は打てないが、無料のInstagramやXで何かアピールしたらいいのではというところから始めた。今年は神田祭もあり、錦町と一緒にお神輿を担ぐのでぜひお越しいただきたい。 - 神田明神には、岸川禰宜や清水宮司等のおもしろい方がたくさんいらっしゃる。お酒が飲める宮司さんは珍しい。岸川禰宜は第四回の「神保町夜学」へ来てくださり、立て板に水の如くプロレスの話をされていた。
→彼は学校の非常勤講師もしているため、話をするのは得意。
→偶然、別の場所で清水宮司と知り合ったが、東京文化資源会議のまち歩きに参加すると思いがけず会ったりする。神田明神は大人気だが、その他で宮司さんがクローズアップされている神社はあまり聞いたことがない。
→神田明神はマスコミの取材をあまり拒否しない。比較的オープンなため、露出が多くなるのではないかと思う。 - 小さい神社でこれだけ露出しているところは、地方以外ではあまりないと思う。写真を撮るために神社の前を歩いていたが、パンフレットのイラスト・デザイン担当者がなかだえりさんで驚いた。私は千住の人間で7代目になるが、なかださんは千住の路地裏で飲み屋だったところを改装してアトリエにしていて、たまに会ったりする。
→なかださんは神田学会の表紙を担当されていて、五十稲荷神社を建て替えた時に神田学会から今度題材にしてもいいかと声をかけてもらったご縁で知り合った。 - 最近は外国の方も多いか。
→多い。中国の方等。 - グラフィックデザインの仕事を本職でしており、その他にも足立区内で親子の居場所を作る地域食堂や、環境NGOの活動で子連れの街歩きをあちこちで行なっている。コロナ禍前に神保町で行なおうとして中止になったため、今年は実現したい。
80~90年代は神保町でデザイン事務所を開いていたが、自宅に帰るのは週に1回程。ほぼ神保町に住んでいた。その後、本郷へ事務所を移し、さらに千住へ移った。 - 実家の隣に「名倉医院」という骨つぎで有名な病院がある。江戸時代に患者さんが何百人とやってくるものの宿泊場所がなかったことから、名倉医院の周りに5軒だけ加療宿屋という怪我人専門の宿屋があった。実家はそのうちの一軒。
- 御茶ノ水にも分院がある。全国に「名倉」という外科医院があるが、それは接骨院の象徴のような「名倉」の名を勝手に付けたもの。「名倉医院」の関係者が経営しているのは3つか4つ。
→名倉医院の昔の古い建物は覚えている。
→あの辺りも全てビルになってしまった。
→自分も同級生は皆いなくなってしまった。80年代くらいまでは神保町にも民家が少しあったが、地価が高いため維持するのは難しい。現・集英社のビルが建つ前の土地には家族経営の大きな八百屋があり、そこのおばあさんの漬物がすごく美味しかった。
→自分が小学生の頃は、近所に魚屋、八百屋、肉屋とそれぞれ別のお店があった。それらもなくなり、今は神田スクエアのサミットへ行かないと買い物ができない。夜10時まで開いているので助かっているが、それができる前は、淡路町のオリンピックまで行っていた。 - 不動産会社に勤務していて、直近で2回程、五十稲荷神社の取材をさせてもらった。一つが『オープンカンダ』というウェブサイトで、もう一つは神田錦町情報誌『gooddays』。編集メンバーだった自分が、御朱印の行列ができている五十稲荷神社さんの取材をしたいと企画して実現した。今回は直接お話を伺えるということで参加させてもらった。
取材時におもしろいと思ったのが、神田の神社のほとんどが稲荷神社という点。
→江戸時代に『伊勢屋稲荷に犬の糞』という川柳があるくらい、「伊勢屋」という屋号のお店と稲荷神社が多かった。今でも深川のお不動様の前に、お稲荷さんやお赤飯、お団子を食べさせてくれる昔ながらのお店(「伊勢屋」)がある。
私が子どもの頃も、スターバックスの脇にある三省堂の仮店舗の近くに「伊勢屋」という屋号のお店があった。
稲荷神社もそのくらい多くあったが、開発されていく中で、人がいない小さな祠等は淘汰されていった。 - 明治頃の神田の地図に稲荷神社をプロットしていくと狐の形になる、その目の位置に神田明神があるという地図の話を聞いたことがある。出版元に問い合わせたところ、もうないと言われた。
→それは神田学会が30年程前の企画で作った稲荷地図という非売品。形については少し強引なところはあるが、それを元に神田のお稲荷さんを網羅してもらいたいと思っている。昔でいうスタンプラリー。今は人がいないところもあるためスタッフを置いてほしいと頼むのは難しいが、QRコードを使用する等、やり方はあると思っている。
30年前に千代田区内の神社で御朱印スタンプラリーを行ない、アナログの地図を作って御朱印を全て押した方へ記念品を差し上げたことがある。それを現代風に行ないたいと企画している。
→おもしろそう。ぜひ行なってほしい。 - 神田の中で繋がりは案外ない気がする。神田祭も町会のお祭りで、他町との繋がりはそれほどない気がする。
→青年部長同士の繋がりはあるが、御神輿となると自分の町会がメインになるため、他の町会と一緒にやろうということにはならない。 - 「更科」のお嬢さんが建て直す前の五十稲荷神社で撮影した写真がとても素敵。
→大手町にある「星のや東京」近くの神田川沿いに大手町川端緑道という遊歩道があるが、そこから少し入った工事中の白い衝立に引き伸ばされた写真がプリントされていて昔の写真を見ることができる。 - 昨年ナイトウォークツアーをした際、外国人向けに作成された地図があるが、掲載されていないお店がもっとあると思う。
→猿楽町の錦華公園前にある豊島屋さん(江戸時代からある酒屋「豊島屋本店」)のお酒は美味しいので、ぜひ載せてほしい。
→お雛様の時に飲む白酒(甘いお米のリキュール)が美味しい。江戸時代にとても人気だったが、今でも売っている。今は神田スクエアの中にも立ち飲み居酒屋(「豊島屋酒店」)を開いている。
→かなり古い酒屋さんなので、神保町を紹介するならあの辺の道を押さえた方がいい。 - 最近久しぶりに神保町の「新世界菜館」の裏を歩いたところ、飲み屋がたくさんできていた。お店がどんどん変わる。
→80年代にいた頃は、安い牛丼屋や餃子屋、ラーメン屋くらいしかなかった。
→この辺に一軒だけ今でも「いもや」が残っている。久しぶりに行くと大行列ができていたため、食べずに帰って来た。安くて美味しいお店は残っているから、みんな行くようだ。
→以前はさくら通りに古い映画館(東洋キネマ)の廃墟があった。錦町にあった旅館もなくなってしまった。
→いろいろな建物が取り壊されてしまったが、今残っていたとしたら、歴史遺産のようになって、それだけで人が呼べるような代物だったと思う。
→建物も家も、バブル期にかなりなくなってしまった。
→20~30年程前に新宿ゴールデン街のバーで飲んでいたところ、ママさんが以前は神保町に住んでいたが地上げで追い出されたと言っていた。
→実際に私も最終的には本郷へ移転せざるを得ないくらい神保町の家賃は上がった。
→これからもっと上がりそう。
→オフィスの家賃は上がりづらいが、住宅が驚くほど高くなった。
▼次回の予定
- この1年間は実験モードで金額も赤字で活動してきたが、来月からは少し金額を上げさせていただき、いろいろな方をお招きして毎月開催していきたい。
- 4月には、「神保町プロジェクト」のメンバーでもあり、専修大学で出版ジャーナリズム学を教えている植村先生のゼミ生を2名お招きし、神保町をテーマに制作した雑誌の発表を行なってもらう予定。
- 5月には、東京大学名誉教授で建築史の権威でもある藤井恵介先生をお招きし、神保町と建築についてお話をしてもらいたいと考えている。