| 日時 | 2026/7/22 19:00~20:22 |
| ゲスト | 三文字 昌也 氏(都市デザイナー) |
| 場所 | YON(肆)地下一階 |
| 参加者 | 14名 |
※発言者敬称略
▼冒頭挨拶【松下】
- 第18回となる今回は先月『台湾夜市大全』を刊行された三文字昌也先生にお越しいただいた。台湾の夜市のお話から神保町の夜の活性化のヒントを得られれば良いと思う。
- ちなみに本日の台北は気温が29度くらいだが湿度が79%もあり体感気温が34度くらいの気候のよう。
▼ゲストスピーチ【三文字 昌也】
- 神保町プロジェクトの母体である東京文化資源会議の一員として、文京区本郷でまちづくりの活動に携わっている。2026年6月15日に『台湾夜市大全』を刊行した。
- 台湾への渡航経験のあるほとんどの方が夜市を訪れているようだ。
- 本日、鳥取から帰京したところ。鳥取市のまちづくりの支援に携わり始めたが、同市では中心市街地のメインストリート(最大約750メートル)を歩行者天国にして4週連続で土曜夜市を開催している。「日本国内では夜市を開催できないのか」という声を聞くこともあるが、西日本では昔から夜市を開催している地域が少なくない。
- 大学院生時代から都市における夜の生活施設(銭湯、露店、遊郭等)と都市計画との関係を研究してきた。博士論文では台湾の銭湯や夜市、露店等の状況を研究。2023年にTBS「マツコの知らない世界」に出演。それを見ていた産業編集センターの担当者から連絡をいただき、書籍を出版することに。博士論文の執筆と並行して進めていたこともあり、時間がかかったが、ようやく書き上げたのが本書。
- 台湾の夜市に注目する理由は複数ある。世界のナイトマーケットは日本のほか、バンコクや香港等にも見られるが、台湾夜市が特殊なのは年間を通じ日常的に開催されている点。これほど定常的に夜市が発達している国は他にない。
- 香港では2010年代初頭まで男人街や女人街等の有名な夜市が存在していたが、雨傘運動等の政治的混乱も背景に路上での露店営業の規制強化が続いている。タイのバンコクやシンガポールにおいても路上の露店を規制する方向にあり、既存の露店は政府が建設した市場建築の中に収容されるか、徐々に排除されていく傾向にある。
- 一方で台湾は、観光的な魅力が非常に高いという理由から政府のお墨付きを得る状況となっており、こうした評価が変わるメカニズムなどに魅力を感じて研究を始めた。その仕組みは日本のまちづくりにも活かせるはずだと考えている。
- 日本でも香港や東南アジアと同様に、1940~50年代には闇市由来のマーケットが存在したが、違法なものとして排除されたり、コンクリートの建物に収容されたりしてきた(新橋駅前ビル等は有名な事例)。
- 香港や東南アジアで起きた露店規制を日本は50年早く実行した結果、国内では今や見る影もなくなっている。現代の我々にとって夜市に近いものといえば、非日常の祭礼における縁日の露店。日常的に開催される台湾夜市とはかなり性質が異なる。
- 一方で、現在の国土交通省は「ウォーカブルシティ」や「ほこみち(歩行者利便増進道路)」を推進しており、道路の機能を交通だけに限定せず、地域の賑わいや商業活性化に活用しようとする動きが始まっている。
- 各地で歩行者天国の実験や路上でのイベント開催が実現できたのは、こうした時代の追い風に加え、コロナ禍における三密回避の手段として路上イベントの有用性が認められたことも大きい。台湾はそれを日常的に実践しているため、その仕組みから学ぶべき点は多いと考えている。
- ただし、自分と同世代の30代前半の台湾人たちが台湾で日常的に夜市を利用していたかといえば、必ずしもそうではなく、特に台北等の大都市出身者にとっては夜市が日常的に食事をする場所だったとは限らなくなっている。
- 台湾夜市の歴史に関していえば、他の各国と同様に露店は普遍的に存在していたが、中国大陸から渡来した漢人による文化的影響が最も大きい。清代までに街中に道教の廟が多数建設された。道教の廟や中華式の四合院と言われる建築は基本的に囲み型の構造で、中庭(廟埕)を多数有していた。この廟埕が露店の営業場所となる等、日本において神社の境内に人が集まり交易の場となった位置づけと類似している。
- もう一つ台湾において重要なのが道。中国語の「街」という漢字は、それ自体がストリートの意味合いを持ち、中国語話者にとってはストリートそのものが街であるという認識。「巷」という漢字は、小さな路地を指す。街と巷を合わせると「街のあちらこちら」という意味になり、ストリートこそが街であるというのが漢人の認識。
- 路上に発生した露店が固定化して商業が賑わい、そこに住宅が建つことで街が発展していった。これが台湾の市街地形成のプロセス。
- 日本統治時代(1895年~)には、日本が近代的な法制度を台湾に持ち込んだ。その初期に制定された法律の一つが「街路取締規則」。道路上で交通以外の行為をしてはならないという最初の露店規制だったが、当時、露店を生業としていた台湾人に対して日本が近代統治とともに道路管理を徹底することは容易でなかった。
- 実際、最初に取り締まったのは日本人による露店で、台湾人の露店は放置していた。日本人が商店街を形成した後、自らの街を賑やかにしたいとして、夜市開催の申請を当時の警察や地方行政機関に提出したことで、1900年頃に初めて法的に認められた夜市が誕生した。
- 日本では、1923年の関東大震災で神保町周辺も被災し、避難民が日比谷公園に居住したことで同地に被災民向けの露店が形成されていたようだが、東京市により規制された記録があるようだ。関東大震災後を含め、都心における管理されない露店街は規制される傾向にあった。
- 同時代の日本統治下にある台湾では、日本が整備した公園や新しい都市計画道路の上に露店を誘致していた。植民地政府としても、植民地が発展して賑わっていることをアピールしたいがために夜市を呼んで夜間に照明を灯し、いわゆる南国都市の栄華を演出するような施策をしていた。
- 露店を集めた夜市は、当時の台湾総督府にとって人々を呼び込む便利なツールだった。たとえば台南の都市計画では、埋め立てた空き地に市街地の露店商を移転させて人を集め、その空き地に商店を建設するなど周辺の開発を進めていた。その後、露店商をさらに次の通りへ移動させて商店街を拡張していく手法をとっていた。一見すると都市計画とは無関係に見える露店や夜市は、実は計画の上で重視されていたと言えるのではないか。
- 1945年の敗戦に伴い、日本の代わりに中国国民党政権が統治することになった。1895年の日本統治開始から50年が経過したところで、過去と同様の人口流入が生じた。外来政権が突然軍人を連れてきたことで、露店や夜市が生まれたという経緯が繰り返されている。露店が大きく増加したのは1945年以降。日本の闇市と同様、台湾に渡ったものの軍人としての仕事がなかった人々にとって生計を立てるための手段だった。
- 戦後期は台湾の各都市で様々な場所に露店があふれていたが、公式な記録にはあまり残っていない。そういう意味で、台湾夜市の歴史調査は非常に難しい。都市計画の歴史調査であれば都市計画図や公文書を追うことができるが、露店を記録しているのは物好きを除けば新聞くらい。露店を巡るトラブルや事件・事故の記事(どのような商売の人物が誰に襲われたのか)を手掛かりとして、当時の夜市の実態を明らかにしている。
- 戦後の台湾は国際情勢的に微妙な状況に置かれ、1960年代頃から様々なものを製造して輸出する経済を構築していたが、工業化に成功して経済成長を遂げた矢先の1970年代にオイルショックが発生。加えて、日華断交や国連脱退に伴う国際的地位の変化によって諸外国との国交を失い、国内で生産した製品の輸出ができなくなった。
- 生産物を内需によって解決せざるを得なくなり、国内での販路拡大を進めた結果として夜市が賑わう現象が起きた。国内における様々な物資の流通ルートを担っていたのが実は夜市。露店がこれほど大規模化し、流動夜市が出現したのは1970年代から。
- 蒋介石および蒋経国の時代には、社会インフラの整備を目的とした十大建設が手がけられた。1970~80年代にかけて高速道路が建設されると、そのインターチェンジ沿いに夜市が形成されるようになった。
- 台湾内部では、必ずしも人口が多い場所に夜市が形成されるわけではなく、地方の何もない空き地に300~400店規模の夜市が集まり賑わいを見せることがある。自動車やバイクでアクセスしやすい空き地に突如として現れる点は、日本のショッピングモールの立地戦略とは全く異なる発想。商業施設の立地手法として非常におもしろい。
- 台湾夜市はナイトマーケットという都市現象の一つではあるが、その背景には複雑な歴史・政治状況が率直に反映されている。100年の間に統治者が2~3回入れ替わった特異な政治的状況が、台湾夜市をこれほどまでに特別な存在たらしめていると考えている。
- 統治との関連で台湾夜市が現在まで存続している要因の一つを挙げるとすれば、政治的・経済的な複雑さが遠因となり、完全に規制しきれなかった点が挙げられる。日本の場合はGHQによる占領や敗戦を経つつも、地方統治機構は一貫して存続し続けたため、「露店を排除する」といった警察のルールが残り続けた。
- 本書の執筆経緯に少し触れると、編集者からの当初の要望は一般読者が楽しく読めるような観光ガイド的な台湾夜市だった。第一章は充実した観光ガイドとして、夜市で味わえる食事や飲み物、ゲームなどをカラー写真入りで紹介している。
- 第二章からはやや専門的になり、夜市の立地環境について記述を深めている。
- 第三章では紙の色が紫になり、博士論文的な歴史的背景が展開されている。
- 第四章では、現在の夜市が成立している制度的背景やインフラの側面を取り上げ、版元とデザイナーの協力のもと、おそらく日本初となる夜市の平面図を掲載した。
- 第五章ではさらに紙の色を緑に変え、日本のまちづくりとの接続や諸外国の夜市事情に触れつつ、自身の都市計画の実務経験を踏まえて台湾夜市から学べる点をまとめている。
- 昨年度は北海道旭川市で中心市街地活性化の業務に携わった。旭川は銀座に先駆けて50年前に日本初の歩行者天国が導入された場所だが、少子高齢化や人口減少が進み徐々にさびれてきている。
- 北海道第2の都市でありながら、すべての百貨店が撤退し跡地が駐車場になっている。そうした中心街を盛り上げるため、昨年は市に対して申請しさえすれば道路上に露店を出せる仕組みを協働で整備した。本来なら北海道警察、市役所道路課、保健課へ個別に赴く必要がある手続きを条例によりワンストップ化し、「旭川夜市」を開催した。
- こうした取組が全国に広がることを期待している。歴史的に見れば、日本がかつて切り捨ててきた夜市文化を、今になって国土交通省が積極的に再構築しようとしている姿は皮肉にも映るが、トレンドとしては追い風であるため推進していきたい。
- 神保町においても、すずらん通りを含めた道路の活用や夜市の実現に向けて皆さんとも議論したいと考えていた。
- 台湾、旭川、鳥取等、いずれの地域においても共通の壁となるのが警察の存在。警察は治安維持や交通の円滑化を至上命題として活動しているため、見ている世界が異なる。
- 歴史を振り返ると、100年前の新聞にも同じことが記録されている。1900年に台湾で確認された初めての夜市では、露店商側が警察に申請したところ日本人である台北警察署長が即座に却下した。これに反発した露店商が上級機関である台北県知事に掛け合い、知事が賑わい創出の観点からこれを許可したことで、警察と知事が激しく対立したという記事が残っている。
- 旭川でも、北海道警察は厳しい反応だったが、交渉を通じて働きかけることで許可を得られた。100年前の歴史から学べる教訓は数多くある。
▼懇談会
- 個人的に台湾や夜市、日本の露店が好きだが、台湾の夜市には日本の露店に見られるような反社会的勢力との結びつきが感じられないのが不思議。歴史的に最初から存在しなかったのか、あるいは排除されたのか。
→結論から述べると、存在している。日本と大きく異なるのは、台湾の事業者が日本の反社ほど組織化・企業化されていない点ではないか。日本ではそうした勢力は末端組織に至るまで階層化され、カモフラージュ企業を持つなど社会への浸透レベルが非常に高い。
台湾の場合はよりシンプルで、各地域に根差した反社会的勢力は存在するものの、すべての夜市を統括するような存在ではなく、場所によって状況が異なる。台北で最も古い商人の街であり、映画の舞台ともなる萬華(ばんか)には反社会的勢力が存在することが種々の小説や映画でも描かれているが、現在の夜市では、露店商らが自主的に管理委員会や組合を組織し、政府と交渉を行なっているのが基本的な姿。
もちろん萬華のようにもともと反社会的勢力との関係性が深い場所では、管理組合を彼らが組織するなど、日本と同様に表と裏の二面性が存在する場合もあるようだ。
ただし、2000年以降は摘発やクリーン化が徹底されているため、反社会的勢力同士の抗争で一般市民や露店が不利益を被るような事態は起きておらず、以前ほどの影響力は及ぼせなくなっていると考えられる。 - 台湾人にとって、日本の夜市にはテキ屋と反社が結びついているというやや怖いイメージがある。一方、台湾人にとって夜市は身近な存在。1949年から87年まで戒厳令が敷かれており、当時はまだ幼かったため記憶は定かではないが、そうした時代背景が夜市に与えた影響について見解を伺いたい。
→1949年から蒋介石政権下で戒厳令が敷かれ、1987年まで続いた。これは世界で最も長い戒厳令。中華民国憲法の実質的な停止に伴い統治機構も変わり、軍の傘下にある警備部が治安を担っていた。
戦後の台湾で露店商を担っていたのは圧倒的に外省人(戦後に中国大陸から渡ってきた人々で、戦前から居住していたのは本省人)だった。外省人は中国国民党の支持基盤であるにもかかわらず、戦後の露店や夜市を取り締まる側の軍の警備部もまた国民党側だったため、大きな政治的矛盾が存在した。
台北市内の路上には、違法な露店が数多く存在したが、警察もあえて時間をかけて巡回し、露店側が撤収する時間を作っていた。そうした実態が映画や小説にも象徴的に描かれている(80年代以降の台湾ニューシネマにおける『愛情萬歳』の主人公が露店商として警察に追われるシーン等)。
戒厳令下でも完全に黙認されていたわけではなく、移転を強いられた夜市もあった。
1992年の李登輝総統時代から民主化が進み、台湾のアイデンティティが確立されていく中で、「台湾は中華民国ではあるが中国とは異なる」という思想が2000年の民主進歩党への政権交代を機に一気に加速した。有名な例では、中華郵政が台湾郵政に改称される(現在は元の名称に戻っている)流れの中で、夜市は台湾のアイデンティティを構成するものとなっていった。
観光化の側面だけでなく、夜市自体が外貨を稼ぐ手段であり、1980年代のガイドブックには夜市が多数記載されている。日本人は昔から台湾の夜市が好きで、戒厳令下時代から親しんできたが、民進党政権時代になると夜市は台湾を象徴するポジティブな存在として捉えられるようになったのではないか。
同時代に中華人民共和国では露店を厳しく取り締まっていたため、民主国家の賑わいや混沌を内包している夜市のような空間こそが自由民主主義の在り方を体現する場であると論じる風潮もあったのではないかと考える。対中国関係をはじめ様々なイデオロギー的背景があったことは、多くの社会・政治学者に指摘されているところ。こうした経緯を踏まえると、現在の日本の警察による画一的な統治をどう見るかには議論の余地があるだろう。 - 大きな駐車場や寺社の門前、道路等、様々な形態がある中で最も魅力的なのは公道を活用すること。一方、国交省がいくら旗振りをしても、その方針が市町村や道路管理者まで浸透せず、警察には無関係とみなされる現状が最大のハードルだと感じる。
最近、夜市が移動・規模が縮小する要因の一つに周辺住民からの苦情がある。台北の師大夜市は現在も一部存続しているが、周辺に居住する大学教授等のハイソ層の住民からの声に耐えかねて縮小した経緯がある。日本でいうと夜市とは少し異なるが、オフィス街でキッチンカーによるランチ販売が始まった際、既存の固定店舗からの強い反発が生じ、店舗側が警察に通報する事態となった。自身も士林(しりん)で警察の摘発により店舗が一斉に店を畳んで姿を消す光景を目撃したことがあるが、日本の場合は警察が時間をかけて撤退を促す対応を取る。
台湾では、同業者からの苦情で夜市が営業停止に追い込まれることはないのか。
→台北の師大(しだい)夜市周辺は、大学や研究者、ハイソな住民が多く住む地域だが、台北市政府が夜市として盛り上げようとしたものの、住民の大反対を受けて夜市としてのプッシュをやめた経緯がある。居住環境と夜市は対立関係に陥ることが多く、それは地方都市も同様。騒音や悪臭、煙、交通渋滞といった課題が生じるため、住民には好まれない。
一方、固定店舗と夜市との対立があまり起きない理由は、営業時間にあると推察される。台湾の飲食店は、朝食専門店であれば固定店舗でも朝5時に営業を開始して午前11時に閉店する。日本的な不動産感覚であれば、ランチ営業もディナー営業も行なわなければもったいないと考えがちだが、台湾では朝・昼・晩の各時間帯で店舗が分化しているため、夜市と直接的に競合する飲食店が比較的少ない。夜市に多くの人が集まることで、既存の固定店舗にとっても商機が広がり、ウィンウィンの関係になる場合もある。 - アジアのナイトマーケットを多数見ているつもりだが、台湾夜市の大きな特徴は、提供される飲食物のクオリティが非常に高い点にある。有名な夜市には4~5軒のミシュランガイド掲載店があり、台湾の夜市全体では100以上の店舗が掲載されている。日本の屋台の焼きそば等は、味についてある種諦めて購入する側面があるが、台湾の場合、夜市で提供されるものが最も美味しいという料理がある。レストランで提供される品とは異なるということかもしれないが、タイやバリ島もレベルが高い。台湾の夜市がこれほど高い料理の質を保っている背景には何があるのか。
→夜市の店舗がミシュランガイドに掲載され、行列ができるようになった後に目指す方向性についても、日本人の発想であれば良い場所にテナントを借りて固定店舗を構えそうだが、台湾の場合は別の夜市に出店して夜市のフランチャイズを展開するケースが多い。固定店舗よりも初期費用を抑えられ、屋台であれば、例えば100万円くらいで開店できることもあり、固定店舗を営む人と屋台営業をする人とでは発想の基盤が異なる。
ミシュランの評価については、審査基準にやや偏りがある面や、楽しい空間である要素が加味されている部分は否定できないが、日本の祭りの出店と比較すれば圧倒的に料理が美味しいことは確か。
→東京のミシュランガイドでも、焼き鳥、寿司、天ぷら等の評価は比較的甘い傾向が見られる。 - 本日、書籍の増刷が決定した。自身が旅好きで旅の本やエッセイを担当する機会が多い中、台湾人の家庭に宿泊した際、夜市へ連れていってもらった思い出があり、15年程前にトラベルライターと共に『台湾夜市を食べつくす!(私のとっておき)』という書籍を出版したところ、好評を博した。
今回は、「マツコの知らない世界」を見ていた販売担当が三文字さんに注目し、編集部に紹介してくれた。前回担当した書籍は台北・台中・台南の夜市ガイド的な内容だったが、三文字さんの専門的知見を活かした、夜市の裏側やインフラ等の解説を盛り込んだ執筆提案をいただけたのはありがたかった。
→日本国内で「台湾夜市」と冠された商業出版の書籍は2冊存在するが、いずれも同編集者が手掛けている。 - 戦前、銀座の表通りにも露店が存在していた。今では想像しがたいが、当時の「銀ブラ」の記録をみると、新橋から京橋まで往復する歩道上に古本屋等が並んでおり、そこへ行くことが東京人の楽しみだったと聞く。それが成立し失われた経緯や、当時の路面店との関連性等について教えていただきたい。
→戦前・戦後期の東京の露店については私の専門外ではあるが、工学院大学の初田香成先生や関西学院大学の石榑督和先生(『戦後東京と闇市 新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』の著者)がお詳しいはずだ。両先生から伺った話によれば、東京に戦前、多くの露店が存在していたのは事実であり、写真や小説、エッセイにも残されているが、基本的に法的な位置づけはグレーだったと思う。
非合法に営業するか、あるいは組織を束ねて警察とうまく立ち回る人々(一部は裏社会)の存在があった。権力を持つ裏社会が警察の上層部と握りながら成立していたと推測される。
一方、銀座の場合は商店会組合が百貨店を巻き込んだ大きな組織だったため、その組織も何かしらの形で露店と関係性を持っていたのだと思っている。武蔵野大学の宮下貴裕先生が銀座の研究をされているので今度聞いてみたい。
日本の露店が姿を消していった背景には、暴力団等が元締めとなっていたことから、警察側としても取り締まる理由があったことが挙げられる。ただし東京が焼け野原となった後の闇市露店は、警察も完全に取り締まることができなかったようである(人々が路頭に迷うため)。賑わいを取り戻した露店は、私有地や空き地ではなく、歩道沿いにきっちりと並んで出店していたと石榑先生がおっしゃっていた。理由は定かではないが、民地を侵さないのは日本人の習性に由来するのか、他の理由があったのか。 - 2回台湾を訪れたことはあるが、夜市には行ったことがない。これまでは日本の露店商のイメージが強かったが、一人ひとりの生活者が生業として熱意を持って夜市を作り、管理する側との攻防を経ながらも都市計画や賑わいの創出に利用され、いつの間にか社会の一部として確固たる地位を築き上げたプロセスがよくわかった。
現代の夜市はインフラ(電源、排水)が整備されていなければ自然発生的に生まれることは難しいのではないかと考えている。そうした観点から、管理されていない「野良夜市」が台湾において自然発生する余地が現在でも残されているのか。
→管理され尽くした夜市もある。郊外に出現しているデベロッパー型のテーマパーク的夜市(ベンチャー不動産会社のような事業者が鉄屋根を建てて綺麗に区画割りして露店を誘致するフランチャイズ展開型の夜市)は、綺麗で賑わってはいるものの、個人的にはあまり惹かれない。もちろん、学ぶべき点はある。これが現代的夜市の生き残り方ではあるが、他の流動夜市とは成立過程が根本的に異なる。
野良夜市は現存しており、特に台湾南部には流動夜市が多く見られる。曜日ごとに営業する露店も異なる。屏東(へいとう)県の潮州(ちょうしゅう)という街には夜市が3つ存在するが、そのうちの一つはかつて中心地で地元住民とトラブルになり、公式には土地を売却して移転させられたものの、従わずに居残った人々が形成した野良夜市。夜市に厳密な定義はなく、1~2店舗であっても夜市と呼んでいいはずで、こうした夜市は地方都市の至る所にある。 - 台湾では、道路と私有地の境界が曖昧である。亭仔脚(ていしきゃく)と呼ばれる空間は、道路の性格を持ちつつ私有地でもあるため、建物の所有者から許可を得れば出店も可能。行政が所有する土地ではないが、道路としての役割も果たすこうした曖昧な空間での出店は警察も取り締まらない。日本における私道に近い空間であり、台北の延三(えんさん)夜市はセブンイレブン前の亭仔脚空間に出店する露店からなる。
- 潮州では今年の2月にデベロッパー型の新しい夜市が駅の裏側に開設され、現在は複数の夜市が共存する三つ巴の状況になっている。
- 網羅的な夜市リストは情報がすぐに陳腐化するため、書籍への掲載は見送った。
- 本書に関するトークイベントは継続して開催し、今後はゲストを招いた形式で実施する予定。
- 神保町では、9月18日(金)の夜に東京堂書店でトークイベントを開催する。その日程に合わせて夜市的な企画を連動させられたらと考えており、すずらん通りを一時的に封鎖するなどの仕掛けを実現させられたらと思うので、ぜひその現場を見ていただきたい。
▼次回の予定
- 次回は9月開催予定。
